自治体の不祥事防止は「情報公開で」79% (地域経済日経調査)

午前6時起床。浅草は晴れ。

本日は9:02分上野発のはやてで、盛岡へ向かう、ということで今朝も新聞詠みから。

自治体の不祥事防止、「情報公開で」79%・地域経済日経調査(NIKKEI NET)

多選禁止より、情報公開の徹底や第三者による監視制度の導入を――。日本経済新聞社の第4回地域経済500調査によると、官製談合や裏金問題など自治体の相次ぐ不祥事を防ぐには、住民に広く情報を公開する仕組みが必要だとの回答が8割近くにのぼった。

情報公開の徹底というのは、私の語彙だと「バルネラブル」(金子郁容)になるのかなと思う。

ただバルネラブルが自律的であるのに対して、情報公開はどこかで嫌々なのである。 

その昔から、情報公開をしなくてもよいのは、権力=支配者と相場は決まっている――そして権力=支配者は、被支配者へ情報を開示させることでそれを支配しようとしてきた。

今、自治体や公共事業という産業に情報公開が求められているのは、自治体や公は、もはや権力ではなくなったということだろう。

公――お役所は、確かに一時代(開発主義が機能した時代まで)は権力であった。しかし今、情報公開が求められるのは、そうではないということだろう。

とすれば、権力は何処へ移相したのだろうか。

それは一次的には(〈私〉をも含む)「世間」ということができる。

〈私〉は、〈他者〉には情報開示を求めるけれども、個人情報保護などとのたまいながら、自らの情報を公開することなどは、大嫌いなのである。

つまり〈私〉は(その意味で)権力なのであり、その〈私〉の集合のようなものである「世間」もまた権力なのである。

しかしこの権力は、何に対して権力であるのかが分からないでいることで、どこか分裂症気味でもある――ことで「世間」はいつでも分裂症である。

それを露呈させる問いは、「〈私〉は何を支配している権力なのだろうか」である。

これに対する答えは、難しいようで、じつは意外と簡単なのだ。

〈私〉自身である。

しかし、その〈私〉自身でさえ、〈私〉自身は〈私〉に情報公開をしているとはとても思えないのであって――せいぜい〈他者〉を通して〈私〉を確認している程度のものでしかないことで――、どこかで〈私〉は分裂症なのである。

そういう〈私〉の集合が「世間」なのだもの――つまりは「世間」のことも、それを構成する〈私〉のことも、だれもよくわからないのである。

世間はけっして情報を公開はしない。

だからこそ怖い。

だから「世間」を支配しようとするものは、その開示しない情報を見ようとする――ここから、CGMというか、社会は心理学化していくのだろうけれどもね。

そしてついでに書いてしまうけのだれども、こういう時代だからこそ、IT化におけるバルネラルブルは、支配される側=弱者の戦略としては最強なわけだ――それは支配されることで支配されないこと、大きな流れの中でもっとはやいスピードで流れること。交換の原理からの定義を情報を発信しながら拒み続けることでしかない。

なぜなら、ここにあるのは、今の〈私〉=情報ではないからだ。 

ということで今朝は時間制限があるのでここまで。