20世紀/21世紀
八木博のシリコンバレーブログ|20世紀と21世紀は何が違っているのか その3 を読んだ。八木さんは、20世紀と21世紀を、いくつかの項目をもって二項対立させ、その差異を示そうとさている。
20世紀 |
21世紀 |
因果律支配
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複雑系
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この分類の仕方は、いたってまともだと思うし、八木さんも示されているように、これからの社会はこんな方向に進む可能性が大きいのだろう、と(私も)思う。その全体的な流れに対しては(私は)たいして違和感はない。
組織/個
ただ私がいつもバイタリジェンスで違和感を覚えるのは〈組織/個人〉というバイナリーの設定なのである。八木さんはわかっていてあえてやっているふしがあるのだが、これは誤解を招いているように思う。
このバイナリーはたしかに分かりやすいのだが、少々安易(というか個を強調し過ぎ)ではないだろうか、と(私は)思う。
その違和感は、「情熱としての創造性―5月19日チームバイタリジェンス in 仙台での即興的PPT」で、ライプニッツのモナドを引用しながら、以下のように書いたことである。
この部分は、チームバイタリジェ
ンスの方々の中にも、誤解されて いる方が多いように(私は)思う 。個人が活性化するには、その足 場となる拠って立つ地面―― 一階部分が必要なのである。それ がパトリである。
種の論理
つまり私には、〈組織で動く/個人が最大限能力発揮〉は、じつは矛盾しないものだと思えるのだ。それは私が「種の論理」もしくはライプニッツ的個(モナド)において、個人をとらえているからなのだが、そのことについては、「想像界としてのインターネット。若しくは理念モデルとしてのライプニッツ的個(モナド)。」を参照してほしい。
そこでの個(個人)と種(組織・中景)の関係は「個は種のミームの中で育ち、種はまた、個の変化によって変化する」でしかない。つまり「種の論理」においては、種と個は相補的なものとなる。
確かに、種と個は、本来は対立するものでしかない。しかし今や、個は種に溶けることなしに、その対立を乗り越えようとするものでしかないことでしか、種(組織・中景・地域社会)は、生き残れないだろう、ということだ。
つまり21世紀でも、われわれは「組織で動く」のである。組織で動くことで個はより「生きる」ことになるし、それが出来なければ種(組織)は滅びる。
もしそれ(組織で動くこと)に何か弊害や障害があるとすれば、その弊害や障害はなにもので、何故その弊害や障害が起こるのか、をさらにデコードし、修正する必要がある、ということだろうし、それでこそ21世紀モデルなのだと(私は)思う。
以上、トラックバックのテストを兼ねて書いてみた。