建設業解雇3割増、公共工事減、談合が打撃。(沖縄県)

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建設業解雇3割増 公共工事減、談合が打撃 (Yaoo!ニュース-琉球新報)

沖縄労働局は4月30日までに、解雇や廃業といった事業者都合による建設業退職者(解雇者)の推移をまとめた。2006年の解雇者は計1886人に上り、05年に比べ32・4%(462人)増となった。年々減り続ける公共工事費に加え、06年の県発注工事をめぐる談合問題によって業者の経営難が一層進み、末端の従業員が影響を受けている実態が浮き彫りになった。/談合問題の損害賠償金約84億円を県が建設業界に対し請求するのはこれからで、今後の影響拡大も予想される。

地域間格差

地域間格差については、様々な議論があるが、その根底にあるのは就業可能な職業選択可能性の格差だろう。就業可能な職業において地域間に格差があることで、いわゆる地域間格差は「ある」、と(私は)考えている。

それをあからさまにする問いは「この地域の基幹産業はなにか」だ。そしてもしその基幹産業が地域の雇用を支えきれなくなったとき、「機能代替的に雇用を支えるものはあるのか」という問いである。

基幹産業とその機能代替

その地域の基幹産業であるということは、大きなハブであるということで、地域においてはその数は少ない。それはネットワーク的に様々な関連産業をつなぎ、そこで働く人々の雇用を支えている。

それゆえ、その基幹産業がなんらかの要因(例えば環境変化)によってダメになったとき、「機能代替的に雇用を支えるものはあるのか」が〈あるのか/ないのか〉は、地域の維持にとって、大きな問題とならざるを得ない。

それは、その地域に踏みとどまって人々が生活を続けていくその基底を担保できるのか、という機能であり、それは基幹産業とともに重層的に存在することで、地域をより安定させる。その重層的な機能の〈有/無〉が、最も基本的な地域間格差なのだ、と(私は)思う。

だから首都圏と地域の所得金額の〈多い/少ない〉を比べてもたいした意味はないが、その機能の〈有/無〉を比べれば、地方は圧倒的に不利であり、格差は「ある」と(私は)考えている。

公共事業という後戸

そして公共事業は、そもそもは基幹産業の機能代替なのであり、雇用の受け皿(グレーゾーン)、若しくは補償機能である。つまりセーフティネットであること(後戸であること)を、その第一義的な機能とすることで、存在する意義をもつものであった。

しかし戦後の開発主義的な政策が続いたことで、われわれはその立場を忘れてしまったのだろう。単なる豊かさの相続人であることで、オルテガ・イ・ガセットのいう「慢心しきったお坊ちゃん」であることで、それが官製談合、利益誘導型政治につながってしまった……そのことで、開発主義の終焉はハードランディングにならざるを得ないようだ。

沖縄県の基幹産業

沖縄県もその例にもれず、公共事業は基幹産業になってしまっていて、もはや基幹産業の機能代替と呼べるものではない(多くの地方がそうであるようにだ)。

「建設業解雇3割増」がなぜ問題なのかといえば、それは公共事業が基幹産業であるから、というよりも、後戸としての機能代替――セーフティネットがないことで、切実な問題なのである。

これに対しては、セーフティネットとしての公共的政策の発動が正論なのだろうが、そもそも政府は公共事業を否定している。その原因は政府の財政難ということになっているが、この問題に関しては、政府自民党は、小泉内閣以来「無策」を続けている。

私はこの政策的無策(市場原理にゆだねることは「無策」でしかない)を非難しつづけてきたが、この問題に関しては、安倍内閣も相変わらず「無策」であるし(たぶん自民党内では、選挙対策の意味でも、なんとかしたい、という方々が多いのだろうとは思うのだが)、じつは沖縄県も、建設業界も「無策」なのである。

なぜならこれは、日本にとってはOSの書き換えと比喩してもいいぐらいの大きな地盤変化であることで、前例が全く通じないからだ。

パトリの護持

市場原理にゆだねるというのは簡単なことだが、それではパトリは護持できない、ということについては散々公言してきた。パトリは「種」であり、国という「類」が成り立つための礎である「個」の足場でもある。個人(個性)を生かすなら、パトリ(種)を護持しなくてはならない。

公共事業は、沖縄で生まれ(もちろん沖縄以外の方もいるだろうが)、沖縄で生活する方々を維持してきた唯一の方法論だったのではないだろうか――そのことで、(談合のような贈与共同体性の)悪い面ばかりを強調すれば、パトリの護持という最も根源的な(公共事業の)機能は破壊されてしまう。

そしてそこにはもはや受け皿がないことで、資本の原理は、共同体性を首の皮一枚まで追い詰めることに成功してしまったわけだ。

人間は適応能力の高い生物であるから、それは何処へ行っても生活はできるだろう。

しかし沖縄にとって最も重要なことは、沖縄で生まれ、沖縄で暮らすことに大きな価値を見出している人々がいるということであり、沖縄で生まれ沖縄で暮らしたいという人々を育むことだろう。

それは沖縄というパトリの護持にとっては絶対に必要なことだし、そのような人々が自ら変化することによって、沖縄はパトリを護持しながら進化することができる。そしてその可能性を最も強くもつのは建設業自らの変化だったのだが……時遅しなのだろうか。

ただ今回の記事には、ローカルマスコミが、なにか、あたふたたしている様子を感じているし、記事の感想も「考えさせられる」が最も多いのは、世間(ぶれない軸としての大衆)に、なんらかの修正が起きていることの小さな表出なのかもしれない。それは夏の参議院選挙の結果として、より大きく表出してくるのだろうか。

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