昨晩は、岩見沢の近藤さんが来浅。夕餉にひさご通りの米久本店で牛鍋を食べ、それから居酒屋浩司で一杯やった。
米久本店
米久は、玄関で下足を脱ぐ。ドン、ドンと太鼓の音※1も朗らかに、座敷に案内される。米久で牛鍋を食うのも久しぶりだ。
最近ははとバスのコースだし、団体客が多いので敬遠気味になっていた。つまり今のあたしにとっては裏浅草的ぎりぎりの店になってしまっているのだが、はとバスのコースだからといって、浅草的でない等というつもりもない。
つまりそこ(観光客)まで含めて浅草的だと考えたほうがよいのであって、ただ客は浅草的ではないということである。
しかしそうはいっても、うちのすき焼き(牛鍋)のスタイルは米久のものを踏襲したものだし(つまりは本来ここは大衆的な店なのだ)、なんといっても一階の座敷には、牛鍋100年の匂いが無限小のとなって宿っている。「街は店に宿る」のはたしかだが、米久となると浅草的ではない客がいくら増えようがどってことはないのであって、やっぱり浅草なのである。
ただ、その昔、高村光太郎が詩集『道程以後』の中の「米久の晩餐」※2で詠んだような、群集はもういないし、その面影もない。その昔の米久は、今ならさしずめ吉野家なのだろうが、米久はちょっぴり高級な店になってしまった。
近江牛
米久の近江牛(とく)。それにしても立派な近江牛である。※3
これを小さな鉄鍋で煮ると、あっと言う間にくしゃくしゃになってしまう。ザク(野菜と焼き豆腐と糸こんにゃく)は付け足しのようなもので、米久ではただ黙々と肉を食うのだ。あたしたちは肉をおかわりし、生ビールを3杯飲んだ。食うだけ食ったら長居は無用。さっさと食ってさっさと店を出るのは浅草の流儀である。
米久本店 (すき焼き / 浅草) |
※注記
- この太鼓は店中に何人の客かを知らせるもので、2人なら2回、3人なら3回である。
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ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓楽をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平気でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄りやわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を気にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。 (高村光太郎:「米久の晩餐」より) - この店の初代は、何頭もの近江牛をひきつれて、東海道を歩いて江戸に出て来たのだそうな。(小沢昭一: 『僕の浅草案内』:p77)