むろんヨーロッパにもアジアにも「好事家のための美食文化」は豊かに存在する。けれども、それはあくまで料理人がいたり、地下にワインセラーを持っていたりする選ばれた少数のためのものである。本邦の美食本のマーケットはそうではない。これらの雑誌の読者たちはビジネス街のランチや「こなもん」の美食情報を求めるヴォリューム・ゾーンな人々である。そのような日常的食物(カツサンドとかオムライスとかおでんとかについての)美食情報が国民的規模で熱い関心をもって探求され、かつこれほどに情報精度が高い出版文化を持つ社会が他にあることを私は知らない。[美食の国へ (内田樹の研究室)]


午前7時起床。浅草は晴れ。あたしといえば喉風邪をひいてしまって声は限りなくハスキーでささくれ立っていいるけれども、それに反比例するように、脳みその皺は伸びているようで、思考の溝なんぞどこかへいってしまったかのようにつーるつる。なんともぼんやりとした月曜の朝なのである。それは単に寝不足なだけなのだけれども、なぜか昨晩は寝付けなかったのだ。

起きてすぐに内田樹先生の[美食の国へ (内田樹の研究室)]を読んだ。それは江弘毅から読めとメールがあったからで、いったい何事かと思って読んでみれば、それは(内田先生には)珍しい「食」についてのテクストなのであった。

しかしそれは単なる食い物ブログではないわけで、江弘毅からの引用もあるし、読み応えは十分なのである、というか何度読んでもつるつるの脳みそは「よくわからない」と悲鳴をあげている。

それでも「何か書かなくちゃ」と思うのがあたしの律儀なところで、それは伸びた皺を戻すににも悪いことじゃないだろうとこのテクストを書き始める。

あたしときたらこのブログを単なる食い物ブログ化していて、毎度「食」のことばかりを書いている。だからといってあたしの「食」の「文化資本」なんぞ血統的に身についたものであるわけもなく、ただひたすら後天的にそして意識的に「あたしの基準で」取得しているものでしかない。

それは人間の創造性の賜物としての「食」、そして流浪の民であるあたしを受け入れてくれた浅草のパトリとしての「食」、と同時に、浅草的においをまとう「街的」な「食」という範疇(狭い了見)でしかなく、だからそこに向かうテクストはあたしの独断と偏見に満ちてしまう。

そしてその独断と偏見を他人様に読ませようというのだから、それはまったく余計なお世話なのだろうが、しかしそれを止められないのはやっぱりあたしは病気だからであって、しかし病気であることこそが、今のあたしの唯一の情熱と勢いの源なのだから、そう簡単には止められないのである。

だからこそ問題はその「基準」(狭い了見)なんであり、あえてそれをぎりぎりに狭くした方が勢いは強くなるのはホースと同じことだろう。(ただ発信する情報量があればのことだけれどもね)。

つまり、あたしのテクストは、ますますあたしの憧れの対象である「地面から生えてきたもの」へと狭まり、その「地面から生えてきたもの」を反射したものとしての「食」をテクスト化していくことで、それはあたしの脳みそに(循環的に)収まり、しかしそのことでこそ、遅れてきた者としてのあたしの「世間」を逆に広めている(のかもしれない)。それはたぶん

教養と味覚教育とを支配するもろもろの規則の全体

の後天的な理解でしかないだろうが、生来の田舎者であるあたしは、そうすることでしか情熱と勢いを保つことができないでいるのである。

そしてそういう「食の文化」には、テリトリー性や血のつながり的なものが大きく働いているのだろうと思うあたしは、そういう「食」の持つ「続けようとする情熱」を孕む「秘伝」のようなもの、あるいは、ある「技法」を合理的に教え込もうとする近代的な教育システムでは未だに達成できないものを、「世襲できない者」として生まれた身を悲しみ、卑しくも盗もうとしているに違いない。

そしてそこに江弘毅がいたわけで、あたしが江弘毅の『「街的」ということ』に共感できたのは、(たぶん)上方の地面性を言葉にしようとする江弘毅の「狭い了見」に惚れたからであり、その「狭い了見」をテクストにすることにもだえ苦しむ人間(バカ)を(あたしはあたし以外に)初めて知ったからであり、「狭い了見」が溢れたそのテクストに、その「狭い了見」とは裏腹な、存在する全ての生活者への愛を感じたからなんだろうな、と内田先生のテクストを読みながら思ったのだ。