レストラン コロナのビーフシチュー
レストラン コロナのビーフシチュー


浅草の住人であるあたしには(近所に洋食屋が多いことで)ビーフシチューで昼餉(ランチ)にすることは少なくもなく、ランチローテーションのひとつではあるけれども、リスボンのそれを除けば総じて(ランチとしては)いささか高価な部類に入るわけで、いきおいその回数は少なくなる。

そんなもので今年初めてのビーフシチューでランチは、1月26日、岩見沢市のラストラン コロナで、ということになった。あたしは岩見沢の洋食屋をここしか知らないのだから、こういう言い方はヘンだとは思うけれども、これは岩見沢で一番うまいビーフシチューだと思う。

老舗の洋食屋のある街は幸せであって、それは街中で暮らすことのシンボルのようなものだろうし、シンボルであるということは街中で暮らす人々のこころの平穏を表徴している。新興住宅地やハイパーなマンションの立ち並ぶ土地にうまい洋食屋がないのは、洋食屋が街場という地面から生えてきたものに他ならないからだ。

「地元」というのは、まさに自分が立っている地面そのものの範疇の場所で、いつも「自分」に含まれている。(江弘毅:『「街的」ということ』:p24-25)

地面から生えてきたものとはつまりは「街的」であることであり、それは身体性を伴った――生活する――〈私〉のことでしかない。それはまた「浅草的」でもあり、「パトリ」でもあり、アジール性を伴った「中景」でもあることで、

寿司と洋食と蕎麦は、近所のがいちばんうまい。

のである。

岩見沢のコロナは、まるであたしの近所の洋食屋であるかのにように振舞う術をもっていて、子宮的安心感としかいえない佇まいを示してみせる。それは無理が無く、母性的に、穏やかに、である。

だからあたしは、その空間の一部のように存在することができて、この店にくると安心し、穏やかになり、無理がなくなる。そしてこの店の料理はその安心を表徴するように無理が無い。街の洋食屋として奇をてらうこともなくまことに正しいビーフシチューを出す。

あたしが岩見沢の店に感じるこの感覚は、パトリが地勢を超えて存在しえることを証明しているのだろう。つまり故郷はいつでも懐かしいものだけれども、たとえ故郷をもっていなくても、「街的」な店がある限り、(たとえ擬似的であっても)故郷はどこにでもつくり得る。「街的」な店はただ存在することで(それはまるで引力のように)「街的」を呼び込めるのだろう。

レストラン コロナ
岩見沢市2条西3丁目4
0126-22-0645
レストラン コロナ