桃知商店よりのお知らせ

江弘毅は、「うんと固く」は3つあるという。若しくは只今シナプス組み換え中であること、または返信のためのメモ。

人は、いつでも、自分をさまざまな意識でしばりあげている。見栄、てらい、羞恥、道徳からの恐怖、それに、自分を自分の好みに仕上げている自分なりの美意識がそれだ。それらは容易に解けないし、むしろ、その捕縄のひと筋でも解けると、自分のすべてが消えてしまうような恐怖心をもっている。(司馬遼太郎:『風邪の武士 下』)


ここのところ江弘毅をリスペクトしながらブログ書いていたのは、140B劇場-浅草・岸和田往復書簡に忘れた頃に返信が届いたからであって、それはテクスト狂にとっては幸せな時間ではある。

しかしその返信と云うのが[ようけ持ってもかさばるだけやろ、カネじゃあるまいしー消費と所有のリンク。]などという、シナプス接続の全てを一端開放し、改めてある部分(というか全て)を江弘毅用に組み換えなおさないと返信が書けないようなものなのだ。

つまり今のあたしの状態というのは、(返信を書くために)対江弘毅用の脳みそへリハビリ中みたいなものなのであって、こうして試作のような作業を繰り返している。

なので返信には時間がかかるわ、というよりも、これを返信にしてしまおうかと思ったりもしているのだが、いやそれもなんだかな、なのである。

それにしても江弘毅のいう「うんと固く」は3つある。の理解は面倒なのだ。あたしが「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。」と書いたのは太宰治の『女生徒』からの引用だが、それを大衆文学的に表現すれば冒頭の司馬遼太郎のようになる。ぶっちゃけ人間は縛られないと生きられないのだわ。

それを江弘毅は「三つある。」というのだ。この断定はただごとではない。そのデコードにあたしの脳みそを合わせるには、どこからか語彙を持ってこないといけない。けれどそれが未だにでてこないのだ。

もしかしたらあたしの所有物としてそんな語彙はないかもしれないと思うと悲しいので、風邪気味の身体に鞭打ちながら、こんなテクストを書きながら語彙の整理をしているわけだ。

そしてまた江のテクストの冒頭に戻って読み返すと(とにもかくにも書くよりも読むほうが時間がかかるのだ)、

まさにその「うんと固く」は「差異をつくり出せ。そこから利潤を得よ」ですね。これは「利潤を得るためなら、どんな差異でもかまわない」という、まさに広告代理店的世界です。

というヒントのようなフレーズがあったりする。

それはまさに「差異」をことさらに強調するポストモダン的な手法であることで、つまりは「うんと固く」その1(プレモダン)を、差異とお金を用いて壊したら、今度はその1とは違った「うんと固く」その2(モダン)が出てきてしまったということだろう。

つまり縦社会的な縛り、ムラ社会的な縛り(それを日本的なモダンといってもいいだろう)を、そこには自由がないじゃないかと、ポストモダン的な手法で壊してみたら、また違う縛りが出てきてしまったのだけれども、それは先に書いたように、ぶっちゃけ人間は縛られないと生きられないからだろうし、だからいつでも人間はあえて縛る装置をつくるのだと。

そしてそれはこうもいえるだろう。つまりあたしたちはつい最近まで「まだモダンでもなかった」のだけれども、ようやくモダン(それは西洋的なモダンといってもいいだろう)に追いついたのかもしれないねと。

そしてモダンにはモダンの縛りがあるのだけれども、それがその3なわけで、それはプレモダンの破壊屋が、ほかならぬお金(交換の原理)であることに起因している。

「うんと固く」その3は、お金による所有という縛り(交換の原理による縛り)である。ただ所有については同じく司馬遼太郎にべらぼうなフレーズがあって

勝手な理屈ね。人間て、そんなものじゃないわ。男でも女でも、たれかの持ち物でなくちゃ、生きてゆけないものよ。子供は親の持ち物だし、親は子供の持ち物だわ。男とか女がいい仲になれば、お互いはお互いの持ち物だし、持ち物でない人間ていないわ。あれば、きっとそれは人間の形をしているだけで、野良犬よ。(司馬遼太郎:『風邪の武士 上』)

つまりは人間は所有の縛りからも逃れられないのだろうし、「野良犬よ」は今でいえば「動物化」であるだろう。しかし人間が人間であるための所有にお金がからむと、どうして人間はこんなに品がなくなってしまうんだろう、と江弘毅は言いたいのか……な。

金は商品の価値を示す。ではなぜお金でその価値が示せるかといえば、その商品がお金と交換できるからであって、その根拠はお金が商品と交換できるとみんなが思ってるからでしかなく、つまりお金はお金として使われるからお金なのだとみんなが思っているからお金なのだ……という堂々巡りに縛られていると。

この堂々巡りに対するポストモダンの解決策はリゾームでありスキゾであったのだけれども、あたしも江もその手法を使わないわけで、つまりは「街的」という手法を如何に使うのかってことか。

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