編集発行人 江弘毅 ミーツ・リージョナルNO.189 2004年3月号
午前5時50分起床。浅草は雨。昨日は、呑み友達の鉄蔵さんが、本を持ってやってきた。
その中に、編集発行人 江弘毅 ミーツ・リージョナルNO.189 2004年3月号があって、あたしは躊躇なくそれを借り受けた。これは鉄蔵さん大阪赴任時代のバイブルだったらしい。
江弘樹とつきあいはじめて、ミーツという名前はよく聞いていた。けれど、現物をみるのはこれが初めてで、この4年も前の雑誌をたいへん興味深く読ましてもらっている。
4年前とはいえ、テクストとして古びたところなどなく、なるほどこれは「バイブル」だわね、と思うし、奇跡のような「テクストの快楽」だなぁ、と思う。
「表出」の享受から生まれる快楽は、GC空間(グローバル/コミュニティの象限)の第3象限、つまり〈非合理性〉にある。
そのとき、全ての合理性は、ただ「表出的要素」としての〈非合理性〉のために働いているのだ。
けれど合理性というと、〈形式合理性〉と〈理論合理性〉=第1象限しか思い浮かばないバカ(マニュアルバカ)ばかりだから、世の中の多くの類似本はつまらないのである。
この本の何が奇跡か、といえば、それは〈超合理性〉のことである。〈超合理性〉とは、形式合理性、理論合理性、実質合理性、実践合理性が、いっぺんに働いてしまって第三象限に表出してしまっていること(もしくは、その表出を享受できる感性を持ちえること)なのだ。(これを知らないバカが経済を語るとろくなことがない)。
それは何よりもローカル側(第2象限と第4象限)が機能しなければ実現不可能なことであって、その第2と第4こそが「街的」の〈合理性〉なのである。
この「街的」の〈合理性〉というのは、第1象限、つまり〈形式合理性〉や〈理論合理性〉から見れば、非合理だと思われがちだが、そこに住む「われわれ」にとっては、マニュアル以上に合理的なのである。その「われわれ」にとっての合理性は、あたしのような〈他者〉からみれば、〈非合理性〉でしかなく、つまりそれが「快楽」なのである。
〈経済合理性〉というのは、この全ての象限を基底にしているから非合理性も孕むのだし、マクドナルドとチェーン店ばかりの街がつまらないのは、実質合理性と実践合理性が希薄なために、第三象限(非合理性)が機能しないからだ。そんな「街」に財布の紐が緩まないのは当然である。
この本は、大阪24区、それぞれのローカル合理性の表現であり、じつに編集発行人江弘毅らしいものだと感心しきりなのだが、それを可能にしたのは、なによりも大阪の「街的」の存在なのだと思う。近いうちに大阪へ行こう。
Comments [2]
No.1ねぇさんさん
探してみたらうちの本棚にも当然のようにミーツがありましたわ。
近いうちに来られるの、楽しみにしてます♪
No.2ももちさん
>ねぇさん
はい、近くお邪魔します。
それも神戸空港経由で(ただ単に降りてみたいだけですが)。
てぐすねひいて、まっててちょーだい。(笑)