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2019年03月03日|お知らせ



何故、公共事業は次から次へと新しいソリューションを取り入れながら、それを形骸化し消費してしまうのか。

午前6時起床。浅草は雨上がりのくもり。今年は宮出しがないので静かな三社祭最終日の朝だ。珍しく、『桃論』の更新を続けて行う。

Lesson18 発注者と市民社会(2)―何が公共工事の方向性を決めているのか from 桃論―中小建設業IT化サバイバル論

Lesson18 発注者と市民社会(3)―公共工事のプリンシパル・エージェント問題 from 桃論―中小建設業IT化サバイバル論

追記:「Lesson18 発注者と市民社会(4)―発注者の権威の崩壊 from 桃論―中小建設業IT化サバイバル論

追記:「Lesson18 発注者と市民社会(5)―自らが環境にはたらきかけなければ私は私を救えない from 桃論―中小建設業IT化サバイバル論

これも原文を読んで自分でもダメだなと思った(Lesson18はめちゃくちゃだ)。とにかくも読みにくい。なのでテクストの流れを最優先に手を入れてみた。できれば最初から書き直したいぐらいなのだが、それでは駄文としての『桃論』のWeb化の意味も消えてしまうので、骨格はそのまま残している。だから書き直しても十分に駄文なのである。(構成が悪いってことだろうね)。

このテクストの失敗は、いろいろなものを一遍に書こうとしたことだ。ここだけで1冊本が書けたわね、とも思うが、今、要約してそれを書くなら、次から次へと公共事業に導入されては消えていく「制度」が中心になるだろう。

制度は何故必要なのか

国(建設省、今の国土交通省)=「発注者」の主導で、公共工事に導入された(若しくはされようとした)制度は、例えばCALS/ECや、ISOや、CCPMから各種資格制度まで、まぁ、いろいろとある。それは何のために行われてきたのだろうか、という問いである。

それは、

官僚は何を最大化するのだろうか。一つの答えは、「官僚は自分の属する省庁のサイズを最大化しようと努める」

という「スティグリッツの法則」に忠実な組織行動でしかないだろう。

なにしろ(経審の評価対象となる)資格を増やす度にそれを管轄する特殊法人が生まれて、新しいソリューションを思いつけばまた特殊法人が生まれていたのだから。(組織とは天下り先も含めて組織なのである。だから天下り先が民間企業であるなら、その企業も自ら組織の一部のように扱う)。

あたしもその昔は、お上に従順な公共事業をする人だったので、CALS/ECや、ISOには敏感に反応した。"天下りさん"はいなかった(つまり組織の一部とは見なされていなかった)けれど、それらを自らの(組織の)モノとすることで、受注の確保、少なく見積もっても自社の業務の改善ぐらいになるだろう、と考えていた。つまりは品質の確保というか向上には寄与できるだろう、と。

それは今考えればナイーブ過ぎる心象なのだが――確かに自社の業務改善には(多少なりとも)役だったとは思う――、受注の確保なんていうのはトンデモない勘違いであって、結局は「発注者」のご都合主義に付き合わされただけではないのか、という思いが強い。その為の多大な出費と現場への負担増は、淘汰政策としては"マクロ的には"機能したのだろうが、"ミクロ的には"多大な迷惑なのである。

『桃論』がいうのは、それらの「制度」は、「発注者」の、市民社会との「意図に対する信頼」の確保が、公務員という身分制度では無理になったことから生じている、ということなのだ。

意図に対する信頼は確保できたのか

では、それらの制度を導入することで、「発注者」つまりは官僚、公務員が、「意図に対する信頼」を確保できたのか、といえば、逆に徹底的に信頼を失ったのが昨今の状況なのである。ではなぜそうなのかといえば答えは簡単である。「発注者」(の組織)自らが、それらの制度を導入するつもりなど更々なかったからだ。

つまりそれは、とりあえずは流行の「ソリューション」を導入して、「意図に対する信頼」を確保しよう、というポーズのようなもので、中小建設業(と地方自治体)はそんなものに翻弄されてきた。(たぶん)今でも。

「発注者」は、受注者にはいろいろと押しつけてくるけれど、自分たちはなにもしない。なのでそのうち、受注者の方が全ての面で「発注者」の技量を上回ってしまう事態を招くことにはなる。

それは「発注者」の「能力に対する信頼」を損なうだろうが、"由らしむべく、知らしむべからず"(人民には、国の施政に従わせることはできるが、その理由などをわからせることはできない」という孔子の論語の言葉)に従えば、それはたいした問題ではない。

合理性

官僚は第Ⅳ象限の生き物である

ことの本質はそんなことではなく、問題は彼らが導入しようとした制度の多くは、米英的な市場原理(交換の原理)の申し子だということにある(上の象限図の第Ⅰ象限の合理性)。

つまり、その多くは(ローカルな資格制度を除けば)グローバリズムを背景とした効率化と合理化の為のソリューションでしかなく、それが「官」という組織できちんと機能すれば、(第Ⅳ象限でしかない)「官」という組織は、贅肉を落とすことになり、小さな政府が実現するはずなのである。しかしそれは官僚の行動原理である「スティグリッツの法則」には反するのだ。

「発注者」は(というよりも官僚は)それを本能的に知っている。だから市場原理を受け入れたふりして本気では「やらない」。CALS/ECの一番大きな阻害要因が、発注者側のリテラシー不足だなんていうのは嘘である。本能的にやる気がないだけのことだ。

つまり「発注者」が導入するシステムは、「みんな」化する(消費者化する)市民社会との「意図に対する信頼」の確保の必要性から、「交換の原理」の申し子、第Ⅰ象限の合理性(形式合理性、理論合理性)である必要がある。

けれどもそれは「発注者」(第Ⅳ象限)にとっては劇薬でもあるので、そんなものを本気で飲みはしないのである。こうしてせっかくのソリューションもただ形骸化され消費されてしまう。

結果的に地方は疲弊する

それはあたし的には悪いことではないけれど(スゲー芸だと思う)、受注者(ローカルな建設業)や地方自治体は、それを真に受けて本気でやったりするから、劇薬を飲んでしまうことになる。つまり地方は疲弊するのだ(これを「正解の思い込み」と呼んだ)。

やる気のないソリューションを並べられ、それを真に受けて真面目に取り組む建設業。しかし真面目にやればやるほど、最後には馬鹿を見るのだから、やってられないのだ。役所はその責任はとらない。建設業の新分野進出で農業に手を出した方々はどうなったのだろうか。うまくいった人はともかくも、うまくいかなかった方々の情報はまるっきしない。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年05月18日 09:14: Newer : Older

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