東急建設土木担当部長ら、談合容疑で6人逮捕 北海道
北海道森町が発注した消防防災センター建設工事の入札をめぐる官製談合疑惑で、道警は16日、談合容疑で、東急建設(東京都渋谷区)札幌支店の土木部担当部長菅沢利昭(60)=札幌市南区、星組渡辺土建(森町)社長渡辺英明(56)=函館市柳町=両容疑者ら6人を逮捕した。
道警は町主導による受注調整があったとの見方を強めており、今後、湊美喜夫町長(79)ら町幹部から重点的に事情を聴く。道警は既に湊町長から任意で聴取している。湊町長は1971年に合併前の旧森町長に初当選し、通算10期連続で町長を務めている。
調べでは、菅沢容疑者らは共謀し、2005年9月28日に実施された消防防災センター建設工事の指名競争入札で、東急建設と星組渡辺土建が組んだ共同企業体(JV)が落札するように談合した疑い。
菅沢容疑者は当時、札幌支店の副支店長で、逮捕された6人のうち4人は、東急建設札幌支店の部長と次長を務める幹部社員。〔共同〕(07:00)
北海道森町
午前4時30分起床。浅草は湿気の強いくもりで蒸し暑い一日の始まりだ。さて、北海道森町と言えば、もりのいかめしぐらいしかしらないのだけれども(時々近所のダイマスの駅弁フェアで売っている)、昨晩届いたニュースには、おもわず、ん~っと唸ってしまった。
それは当事者に思い入れがある、というようなことではなく、また北海道なのか、というやるせなさだ。
大きな変革と共同体性
ここ60年位の間に、日本人にふりかかり、否応なしに日本人の生活を変えたものは二つある。ひとつは昭和の大戦争で、もうひとつは高度経済成長だ。
このふたつの出来事は、ムラ社会を水没させたけれど、しかしエートスとしてのムラ社会的共同体性(贈与共同体性)は否定してはいなかった、
むしろ、昭和の戦争は、家族国家主義としての家父長制の同心円上に広がる国家観にあることで、共同体性を強調していたし、高度経済成長における日本的経営もしかりだ。そしてその奇跡的な高度経済成長を可能にした「開発主義」もまた、ムラ社会的(贈与)共同体性を護持した政策だった。
なのでそこに「談合摘発」はあるはずもなく、なぜなら「開発主義」とは、官主導で行われた経済政策なのであって、高度経済成長期は、(直接的だろうが間接的だろうが)すべてが官製談合のようなものだからだ。
ハードランディング
北海道で続く官制談合摘発は、その否定(贈与共同体性の否定)が、ここにきて、にわかに、容赦なく行われている、ということなのだろう。その理由は、あたし的に言えば「ウェブ化する現実」でしかない。
北海道には、その名もずばりの「北海道開発局」があり、それは開発主義、最後の砦かもしれない。しかしそもそも北海道は、国の責任で開発を始め、開発を続けてきたたのだから、開発局があることは、しごく当然なことでしかない。
しかしその開発局も、[北海道開発局官製談合:「解体的な出直しを」 廃止求め厳しい意見]なのであって、その存続も難し状態になっている。
それは、国(国民)は北海道開発の責任を放棄した、ということでしかなく、それを完遂するためには、まだまだ官制談合摘発はつづくだろう。なぜなら、「開発主義」は、村上泰亮が言ったように「日没させるのが難しい」ということだ。
なので、早急な終焉策は、どうしてもハードランディングとならざるを得ない。それは北海道の建設業界のハードランディングも意味することで、石炭産業衰退後の、北海道地場経済を、毛細血管のように牽引してきた建設業(公共事業という産業)は機能不全となるだろう。
そのことで、北海道経済はたいへんな打撃を受けざるを得ないのだが、その時に起こる諸々のことに対しても、国は責任を放棄するのだろうか。だからハードランディングなのだ、と言われればしょうがないのだが、あたしがここ10年心配してきたこととは、それなんだ。建設業界は(そして北海道は)「ウェブ化する現実」にまだ対応が終わってはいない、と。
明治につくられた共同体性の徹底否定
北海道で起きていることは、今という時代が、日本人が長い間共有してきたエートスである、「贈与」や「共同体性」の否定の時代だ、ということだ。
ただ北海道に顕著に残っていた、「贈与」も、「共同体性」も、あたしは明治の時代に作られた新種なのだと思う。なのであたしは、今という時代を「明治維新」に匹敵する位の、静かで、しかし強烈な、変革の時代なんだろうな、と考えている。それを「パラダイムシフト」と言ってもよいだろう。価値観=OSの書き換えは仕上げの段階なのだ。
そして「街的」
しかし、われわれが言っている「街的」は、そんな明治の「贈与」や「共同体性」とは微妙にズレている。なにせあたしは、なにかというと国家を持ち出す人を、「ヘタレ」と呼んでいるのだし、「町内会がしっかりしていれば大丈夫!」なのである。必要なのは、「街的」という古くてしかし新しい贈与の仕組みなだが(たぶん)、繰り返すのは、建設業界は(そして北海道は)「ウェブ化する現実」にまだ対応が終わってはいない、ということだ。
普遍経済学的=新たなる贈与
われわれは今や、毛細血管の無い
身体のようなものになろうとして いる。しかしそれは死を意味する だけだろう。つまり今の課題は、 金銭的な贈与(毛細血管)を失う なかで、如何に毛細血管を張り巡 らせることができるのか、なので ある。 それは、お金ではないもの、なの
ではないか、と私は考えている― ―というか、お金は後からついて くる、と考えないと、この変化の 前ではただ立ちすくむだけになっ てしまうことで、われわれは、な す術を失うだけだろう。そしてそ れは、「贈与の対象を交換から純粋贈与へ 置き換えること」でしかないのだと思うのだが、 これを制度的にどう構築できるの かは試行錯誤を繰り返すしかない だろう。 なにせ、開発主義は終焉させたが
、それに代わる贈与モデルは、ま だないのである。
Comment [1]
No.1R・Sさん
先日は、おじゃましました。また、早速翌々日のブログで取り上げていただき、ありがとうございます。
森町の件、まだウミが残っていたのかというのが、正直感想です。これが最後であって欲しいのですが。
高度経済成長期に現役の大半を過ごした者として、今の状況へのジレンマと、次の世代にどんなアドバイスをしてあげられるのか、模索している日々です。
モモログではいろいろヒントをいただいています。
今後共よろしく。