[ワシントン 20日 ロイター] 米政府は20日、金融機関が抱える住宅ローン関連の不良資産について、最大7000億ドル(約75兆円)の公的資金で買い取る計画を議会に提案した。大恐慌以来最悪の金融危機に対応するため。
上下両院は数日以内の法案化を目指しており、共和・民主両党議員の補佐官らが週末にかけて同提案内容についての詳細な検討を行う見通し。
計画では銀行など金融機関のバランスシートから回収困難な住宅ローン関連負債を切り離し、政府の管理下に組み入れることとなっており、米財務省には異例の権限が与えられることにもなる。ロイターが入した財務省草案によると、不良資産買い取りに関する財務長官の判断は裁判所の審査を一切受けない。
また、同計画に対応するため、連邦政府の債務上限は現行の10兆6150億ドルから、11兆3150億ドルに引き上げられることになる。 from 再送:米政府、不良資産買い取りに公的資金75兆円投入を提案 | Reuters 関連:米政府、75兆円での不良資産買取り案を議会提示 | Reuters
米政府が不良資産買い取りに公的資金75兆円を投入するなら、とりあえず市場はそれを歓迎するだろうから、一時的には株価は強含みになるだろうが、今、米国政府ができることなんて、こんなことしかないとしても、75兆円という金額をみて、こんなもので足りるか、と思うと同時に、この先の米国はかなり辛いな、とも思う。
それは、この75兆円は、不良債権の大きさではなく、政府の買い取り金額であることで、買い取り金額が安くすむ(例えば時価)ということは、金融機関にはそれだけ損失が出る、ということだ。
4種類の金融危機とその処理策
リチャード・クーさんによれば、金融危機には4種類あって、それぞれに対策は異なる。今回の場合(そしてバブル崩壊後の日本、ついでに70年前の大恐慌)は下の表のⅣ システミックな金融危機且つ資金需要なしの状況であり、慎重な不良債権処理と公的資金による資本注入が必要だということになる。
from BizPlus:コラム:リチャード・クー氏「リチャード・クーのkoo理koo論」
第11回「なぜ米政府はサブプライムで銀行救済に乗り出さないのか」
つまり今回の75兆円というのは、不良資産=不良債権処理であって、資本注入ではないのだ。今回の住宅バブルの崩壊に伴う米国の経済危機への対応を、1990年代の日本政府が銀行の不良債権問題スキームと同じようにするのであれば、最終的な解決策は、「政府による銀行への資本投入」しかない。
- 預金者保護
- 不良債権買い取り
- 金融機関への資本増強
米政府の対応について「流れとして日本とよく似ている。今後、3番目をどのように考えているのかよくフォローしていく」と語り、資本増強の判断を注視していく構えを示した。(茂木金融担当相の談話)
ここまで含めて、いったいいくらかかるのかなんて、だれも知らないのだし、政府の財政出動の原資の問題となると目眩がしそうだ。あたしがポールソン財務長官だったら、たぶんやけっぱちだな、と思う。
しかし、アメリカも大変だよな、と人ごとのように思うのは、あたしが、(間違いなく信用が落ちるだろう)ドル建てで生活しているわけもない町内会的(日本以外全部沈没)人間だからではなく、
政府による資本投入というのは、国民が痛みを感じるまではきわめて難しいのである
という、リチャード・クーさんのフレーズに共感するからだ。「みんな」の反応はいつも遅すぎるのである。
上のフレーズは、《政府による財政発動(公共事業)というのは、国民が痛みを感じるまではきわめて難しいのである》と読み替えてもいいものだ。
日本の「みんな」も、リーマンブラザーズが破綻した途端(なんだか知らないが、これはホントの非常事態なんだ、と思えた途端)、先に政府がまとめた2兆円の総合経済対策案を、そして財政出動に積極的な麻生太郎さんを、バラマキと批判するマスコミはなくなってしまった。 福田康夫首相辞意表明と「バラマキ」という語彙を使って麻生太郎さんをけん制する人達。 from モモログ
それは、何時ものテレビ村的日和見でしかないし、経済も世の中もキアスム的に行ったり来たりしているものだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、あたしが経済対策の2兆円なんて全然足りないのよ、と言っているのは、ここ最近企業の資金借り入れ意欲(つまり設備投資意欲)が急激に落ちている、と感じているからであって、今の状態での財政緊縮策は、クーさんのいう「バランスシート不況」を悪化させるだけでしかない、と思うからだ。
リチャード・クーさんは、「桃論」的には重要な人であったわけで(だから「桃組」の皆さんは、彼が経済学的にはどのような方かはよくご存知だろう=竹中平藏さんの反対側だ)、2001年~04年頃の講演でも、頻繁に引用させていただいていた。つまり、あたしがパトリの護持のためには、公共事業という産業は必要なのだ、と言っていることの経済学的基底の人なのである。
それがここ数年、マスコミからオミットされたようなかたちになっている(た?)のは、それもテレビ村的日和見なのだろうが、主流以外を極端に排除してしまうテレビ村の習性は、《政府による資本投入というのは、国民が痛みを感じるまではきわめて難しいのである》と同じ文脈だからだ。
「みんな」が、彼の言う「バランスシート不況」の理論を理解できれば、公共事業という産業の立場は相当に改善されるはずなのだけれども、「バランスシート不況」は(「みんな」にとっての)「なんだかわからないもの」でしかないことで、「みんな」が公共事業という産業を潰したことの失敗を、自分の痛みとして感じるまでは理解できないのは、当然のことなのかもしれない。
しかしそれは何時も遅すぎることで、コストが倍増するのである(だから中庸=灰色であることは大切なんだけれども)。ということで、午前7時起床。浅草は雨。
追記:参考