すいとん 下町ハイボール
すいとん                                          下町ハイボール


午前5時起床。浅草は雨のちくもり。昨夕、東向島の亀屋のカントクから借りていたものをお返しに出掛ける。出掛ければただ帰ってくるわけもなく、当然に下町ハイボールを飲むのである。ハイボールはかなしい酒である。

かなしいというのは、痛いとか苦しいとかそういうものでなく、それは「誰かと別れること」や「何かをあきらめること」の必然的で根源的なかなしさです。そのかなしさが、わたしら街的人間をタフにするのでしょう。 「都会」に住むのと「街」に住むのとは違う。そこを分からんとなぁ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

その「かなしい」さにおいて、亀屋のハイボールは日本一かなしい、それは胸をかきむしられるようなかなしいである。その日本一かなしい酒には、何時ものように香の物とニラ玉。そしてすいとん。

香の物 ニラ玉

亀屋には食事メニューもある。そのピラは、右から順番に冷たいものが並ぶのだが、左から二つだけは温かいのである。その中でダントツの「かなしさ」を纏っているのがすいとんで、ピラと同じぐらいに「悲しい色やね」なのだ。

亀屋のピラ
ピラ

追記:このエントリを書いてから、江弘毅の往復書簡をアップした。そこに書かれている「すまなさ」というのは、限りなく「かなしい」に近い心象であって、それはあたしのかかえている二軍だ。

しかし祭に「帰る身」としては何だか「世間」に申し訳ない。その「世間」というのはもちろん、だんじりがあるところの「地元」で、いま現に住んでいるとことそれはちがう。毎年、必ず同じ日に祭があり、寄り合いにも出ずに祭の段取りもろくすっぽせずに祭当日に帰ってきてだんじりに参加するのは、おいしいとこ取りをするようで、やっぱり「すまんな」と思う。「みんな」はどうでも、それに関しては「世間」(=町内会)が許さへんやろ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

もちろんあたしの一軍とは商売人という表層で、しかしその表層に覆い隠されているその奥で、二軍はいつも冷たく沸騰している。それは「帰る処」というゴチャゴチャの沸騰であり、その沸騰は、三杯で止めておくはずだった下町ハイボールの五杯飲みとなって表出する。だからあたしは今朝も二日酔いなのだ。

亀屋 
採点:★★★★★