午前7時起床。浅草はくもり。12月上旬並の寒い日だ。昨日、京都店 特撰に、バッキー井上さんの記事を転送した。
その26 酒場ライター養成講座の始まり。始まりはいつも雨降りか。あったな。「百練」| 140B劇場-京都 店特撰
それによれば、井上さんは「酒場ライター養成講座」なるものを始めたとのこと。それはあたしが「ブログの書き方」を教えているようなものかもしれないけれど、あたしのやっていることなんて、テクニカルなものに過ぎない。
けれど「酒場ライター」にテクニックなんてないのであって(たぶん)、受講者の皆さんはいったいなにを学んでいるのだろな、と思う。
まずそれは、バッキー井上という人の酔っぱらいぶりを学んでいるのだろう、それも街の先輩としてである。
バッキー氏が言い、彼自身がそうであるように、街の先輩はいつでも正しいわけではない。酔っぱらったらカウンターで寝て店に迷惑をかけることもあるし、その場になじめずに大声で説教を垂れて一緒にいると恥ずかしい時もある。でも、その「恥ずかしいを教えてくれた」と思う先輩がいる限り、街は先輩で溢れかえる。先輩が多い街には後輩も多い。そういう街は、立ち小便が多くても、実は健全だ。 from 江弘毅:「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ (講談社現代新書)
:p212
井上さんが、酔っぱらったらカウンターで寝て店に迷惑をかけていたり、大声で説教を垂れて一緒にいると恥ずかしかったり、立ち小便の常習者なのかは知らないけれど、井上さんのような街の先輩がいるのなら、それだけで、人生は100倍楽しく、99倍鬱陶しくなる。
それはたいして変わらない人生かもしれないけれど、整数で割りきれない幸せを、受講者の魂は感じることができるだろう(たぶん)。
そして井上さんは、ただの街の先輩ではなく、テクストが書けてしまう。受講者は、ほんとはこっちを学びにきているのだろうけれど、井上さんのテクストというのは、まねしたくてもできやしない。
なぜならそれは、ほとんどオートマティスム(自動筆記)なのであり、PCM(偏執症的批判方法@サルバドール・ダリ)なのであり、呪術なのだ、つまりテクニックじゃなくて思想なのである。
思想を学ぶには根性がいるのだが、その根性のいる講座、どう考えても楽しそうなのである。あたしも機会があれば是非に参加したいのだな。