キャベツ午前5時30分起床。浅草は雨/くもり。午前中ダイマスで特売のキャベツを買ってきた。1個98円(税込み)である。ふつうに売られているものは200円台の後半なので、これはべらぼうに安いのである(だから特売品なのだろうけれど)。

そこであたしは余計なことを考える。このキャベツという商品は98円なのだけれど、これをつくっている人たち(労働力)の日々の生活(労働力維持の保証)は大丈夫なんだろうか。


交換価値と使用価値

労働者が持っている労働力には、交換価値と使用価値という二面があって、交換価値というのは、その労働力が持続することを保証する、衣食住や家族の養育などの、つまり最低限の生活のコスト(つまり賃金)のことだ。

使用価値というのは、雇っている側から見たときの、労働力の支出(パフォーマンス)のことで――農家とか自営業の場合は自分自身の労働力のパフォーマンスでいいだろう――、交換価値≦使用価値であるなら、98円のキャベツでも、ちゃんと儲けはあるはずである。

つまり、このキャベツがあたしの手元に届くまでには、生産者がキャベツをつくり、収穫し、それを市場まで運び、ダイマスがそれを仕入れ、店に運び、展示し、レジで計算をする、というように、多くの人々の手を経ている。

それでこの過程にかかわる全ての労働力の交換価値+他のコストが98円よりも小さいなら使用価値は+であり、剰余価値、つまり利益が生まれることになる。これが商品の仕組みである。

剰余価値

もっとわかりやすく云うと、キャベツ生産者の労働力の交換価値を、1個あたり10円、使用価値を20円、肥料代等のコストを10円としたとき、キャベツが1個あたり30円で市場で売れれば、生産者は1個あたり10円の儲けを得ることができる。このとき剰余価値(利益)は、単純には、使用価値-交換価値であって、つまり使用価値はコストではなく利益の源なわけだ。

これは当たり前のようで当たり前ではないかもしれない。なぜなら商品の価格に利益が含まれるというのは、交換価値≦使用価値の場合のみ可能だからで、つまり貰っている給料以上に、あたしらの労働力というのは価値があることで、商品は成立しているってことだ。

例えば、上の例でいうなら、剰余価値(利益)を決めるのは、キャベツの売価である。それが1個あたり20円以上で市場で売れなければ、生産者は最低限の生活のコストの獲得もあやしくなる。

けれど、1個40円で売れたなら、この場合の使用価値は30円になるのであって、それは10円のコストで30円分の仕事をしたということ。つまり(肥料代等を差し引いても)1個あたり20円の剰余価値(利益)が生まれたということだ。

では、キャベツが1個15円でしか市場で売れなかったらどうだろう。当然に1個あたり5円の赤字だ。このとき、生産者は剰余価値(利益)が出ないばかりか、最低限の生活のコストも得られない。つまりあたしは、ダイマスで安いキャベツを買いながら、これを心配していたりしたのだ。

しかしあたしは、98円のキャベツを買って、あー、儲かったとニヤリとしていたりするわけで、つまりこのほくそ笑みも剰余価値なわけ。でもほんとに儲かったのかどうかなんてわからないのだけれども。

「交換の原理」の中心的存在はおカネではなくて商品。それは剰余価値を孕むことで、あたしらは商売が大好きなんだ。それで、グローバル経済というのは、その剰余価値を最大化しようとする試みなわけで、デフレな日本とは、キャベツ1個が15円でしか売れない時代のことだ。

だから、まず交換価値の低い(安い労働力)をもとめて、企業は海外で生産をしなくてはならなかったし、さらにいえば、派遣というのもこの仕組なわけで、つまり時給850円は交換価値であり、それは使用価値とのギャップが大きければ大きいほど、雇う側にとっては剰余価値が大きくなるってことだからね。

それで、グローバリズムとは無縁の地方の建設業のみなさんは、下がり続ける受注価格(キャベツ15円)でやっていくには、交換価値(賃金)を下げるしかなかったのだ。それは(開発主義からの脱却ができていない=建設業がHUBである)地方経済では、ぜんぶがキャベツ15円になってしまうことに等しいわけで、つまり地方は全部キャベツ15円になってしまったということだ(たぶん)。(未校正なので編集するかもしれない)