酉の市の熊手(八百敏) 

酉の市の熊手(八百敏)午前7時起床。浅草は晴れ、三の酉である。朝方、鷲神社の酉の市に出掛け、八百敏で熊手を買った。

さすがに朝方は混んでいないのでお参りも快適、朝から、家内安全、商売繁盛で、三本締め。少しはいいことがあるかなという気にもなってくる。

熊手は、商売繁盛、家内安全、つまりは「安定」のシニフィアンである。奥にいるおかめは女性の性器、手前の亀は男性のそれであり、この熊手は「女の悦楽」、無から有が生まれる豊穣のシニフィアンである。

セクシャルなことのメタファーに満ちた暮らしが、日本人にとってふつうのことだったのかもしれません。(三砂ちずる:『オニババ化する女たち』:p167)


『夢の解釈』 ルネ・マグリット(1935)ルネ・マグリット 『夢の解釈 Key to Dreams 』(1930年)

ルネ・マグリット 『夢の解釈 Key to Dreams 』(1930年)がやってみせたのは、その反転とでもいうべきものか。

時計は風であり、馬はドア、水差しは鳥(でも鞄は鞄)。 

それはあたしたちには当たり前でしかない言語システムの安定を崩壊させる。まるで麻生さんのようにだ。

しかしそのことで、この絵そのものが、言語システムの安定のシニフィアンであるとも云えるのは、結局あたしらはこうして言語で考えるしかないからだ。

おかめと亀のように考えていたい。

あたしは、どこかで酉の市の熊手のように考えていたい。おかめと亀である。馬と風、水差しと鳥より、あたしはそっちの方が好きだ。

あたしたちが嬉しいのは、いつでも価値の増幅なのである。そのラディカル(根源的)なものは、太陽と大地のもたらす豊穣だろう。自然に対して女性を扱うようにきめ細やかな技術を使うことで得られる豊穣(価値の増殖)である。

その増殖を人工的におこなうのがいろんな科学的であって、それは「女の悦楽」を忘れてしまっているのじゃないのだろうか。最近話題の金融工学というのもそれである。そこにはおかめと亀がいない。

「女の悦楽」を忘れた技術は「ファロスの悦楽」でしかなく、つまりそれは、(喜ばせる)対象が自分自身でしかないことで、マスターベーションでしかなくなってしまう。

それで何が言いたいのかというと、酉の市の熊手というのは、あたしのような商売人に、「女の悦楽」を忘れちゃいけないよ、という戒めなんだということだ(たぶん)。

普遍経済学のトポロジー ボロメオの結び目