岐阜の富有柿 岐阜の富有柿
岐阜の富有柿


雷が鳴っているちょっとした冬の嵐のような午後だ。そんな中、あたしは温かくした部屋で、岐阜の富有柿を食べている。

岐阜県建築士事務所協会さまと、古田さんから、富有柿が届いたものだから、今、うちは、富有柿成金状態なのだ。

岐阜の富有柿は、去年は「柿サラダ」にして食べた(とこのサイトに記録がある)。岐阜の富有柿今年もそうしようと思うのだが、何時つくるのかは未定であるのは、素材が沢山ある余裕からで、とにかくも、ただ皮を剥いて食べてみる。

すれば、あー、うまいなー、とつい声が漏れる。

柿こそが日本で一番うまい果物だと(あたしは)思うのだが、この岐阜の富有柿、近所で買って食べているモノとは、(同じ富有柿というシニフィアンなのに)あきらかにモノが違うのだ。

それはまず、これは「交換」ではなく、「贈与」としてあたしの手元に届けられたものであることで、「贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的ななにかが移動しているようである」という贈与の原理※1が機能しているからだろう。  

そして更に明確なのは、これが「岐阜の」だからであって、「岐阜の」という名指しは「差異」なのである。その「差異」は、産地というパトリであり、パトリは基本的には閉じた円環であることで「差異」のシニフィアンとして機能する。

つまりパトリを基体にした純生産は、「××産よりもうまい」の「~よりも」が使えてしまうのである(これは簡単なようで簡単じゃないことは商売人なら皆知っている)。それを「特産物」という。※2

直ぐれた純生産は、その閉じた円環から、いったん外へ出るや否や、外部へのリンクをつくりだすのであり、交換の原理えさえ、その虜にしてしまう。そしてあたしは、岐阜の富有柿は、柿の王様だよな、と思うのだ。

そして今、この王様を沢山所有し、そして食べているあたしも、王様なのである。それは「あたし」という王国のでしかないけれど、それも富有柿があるうちなのだけれども、短い王様の時間をあたしは楽しみたい(おかげさまで、今年は少し長めに楽しめそうだ)。

※注記

  1. 詳しくは、交換の原理、贈与の原理。 を参照のこと。
  2. だから産地偽装は御法度なのである。