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『告白』 町田康を読む―あかんではないか。

告白

告白 (中公文庫)

町田康(著)
2008年2月25日
中央公論新社
1143円+税


午前7時起床。浅草は晴れ。昨晩、「あかんではないか」―「街的」な言説というのは鬱陶しいに決まっているのです。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡を書いてみた。それは久しぶりのことなのだけれど、久しぶりな感じがしなかった。

その書簡では、「あかんではないか」という大阪語を使ってみた。

それは、あたしにとっての二冊目の町田本である『告白』からの引用で、大阪語を現地語としない、常用語としないあたしでも、町田さんのこの言葉の使い方にはしびれ、理解は快速なのである。

父母の寵愛を一心に亨けて育ちながらなんでそんなことになてしまったのか。
あかんではないか。(p7)

明治十四年。二十四歳になった熊太郎は完全な極道になり果てていた。
生活を抛棄して博奕場に入りびたる。昼から酒を飲むなど遊蕩に身を持ち崩して、その生活態度たるやふざけきっていた。
あかんではないか。(p129)

主人公熊太郎のこの心証は、博奕打ちになろうがなるまいが、昼から酒を呑もうが呑むまいが、明治の時代だろうが平成の時代だろうが、人が生きていれば共通理解のように了解してしまう心証で、ある意味普遍である。

それは後悔である。けれど後悔してもどうなるというものでもなく、己に辟易し、自己嫌悪に陥ったところで何かよくなるわけでもないのだが辟易せざるを得ない、そのどうしようもない自分にさらに辟易せざるを得ず、わかっちゃいるけれどどうしようもない、繰り返される自己嫌悪のようなものである。

なんどそれを繰り返したことか、誰か俺を止めてくれなのである。

だからつい口に出してしまう言葉は、あたしならそれはづっと「厭だ!」※1であり続けてきた。

しかし「あかんではないか」は、翻訳不要で「厭だ!」なのである。

つまり町田康さんは、「あかんではないか」一言で、樋口一葉の「厭だ!」と肩を並べる普遍性を得たことになる。あたしはピンときすぎるぐらいにピンときてしまったので、早速「あかんではないか」を使ってこう書いてみたのである。

この「あかんではないか」は、町田さんの『告白』からのぱくりですが、この大阪語は、けっして余所事ではなく、ほかならぬあたしの憂鬱でもあります。中小建設業のIT化とパトリの護持などということを生業にしているあたしの困難は、情報の技術を共同体性護持のために使うというロジックが、かなり鬱陶しい理解である(つまりわかりにくい)ことにあります。
なのであたしは、 一部の「風流な人々」を除けば、わけのわからないことを云っているヘンなおじさんでしかなかったりします。
あかんではないか。

けれどあたしは、「小説」というものが何のために書かれるのかが未だにわからない人で、しかしそれをあれこれ考えるのも面倒なので、落語とか講談といった話し言葉の演芸がつくる脳内イリュージョンの書き言葉(テクスト)版だと解釈している。

そうでもなければ、こんな分厚い単行本(解説までいれると850頁、厚さは3センチ5ミリある)を、誰が読むかだし、そもそも表音主義的ではあるけけれど、多くの場合、抑揚もリズム感もないテクストを、芸として楽しむことはない。

あたしが、芸事に、そして路地のある生活にこころ惹かれていることも、それは一朝一夕のことではなく、地面が覚えている記憶、とでもいうようなモノからの誘い――その無限小が、あたしの中に眠っていた、DNA的な、そういう時代の記憶のスイッチをONにした――なだろうなと思うのだ。(つまり、波長があってしまった、ということだろう)。※1

しかし『告白』は芸だと思った。DNAを刺激する、呪術的な、とびきりのイリュージョンである。※2

※注記

  1. 『告白』は河内音頭で有名な「河内十人斬り」がベースなので当然と云えば当然かもしれない。うちには京山幸枝若さんの『河内十人斬り』があって、それをBGMにこのエントリを書いた。「エンヤコラセ ドッコイセ」なのである。

Comment [1]

No.1

町田康さんの「告白」を読んでから、
いゃ、先日のトークサロン以降、
「あかんではないか」がマイブームです。

「あかんではないか」を使って日記を書こう!と思うのですが、
そういうスケベ根性があるときはなかなかむずかしく(汗)。

日常会話の中にスルッと「そんなことではあかんではないか」などと使ったりしてます(笑)。

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