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ネットトップ AVERATEC AVA8270N


「5万円パソコン」と呼ばれるネットブックがよく売れている。いまや、ノートパソコンの売上の2割を占めると言われるほどだ。

ネットブックは、名前を見てもわかるように、インターネットの利用がコンセプトのミニノートだ。一般的なパソコンとの最大の違いは、Atomというネットブック専用のCPUを搭載していること。格安モデル用に設計された専用の心臓部を持っている。

OSが一世代前の「Windows XP」となっているのも特徴。最新のOSである「Windows Vista」が登場して2年近く経つが、巷では乗り換えのスピードが遅々として進んでいない。いまだに使い慣れたWindows XPを愛用する個人・企業も多い。ネットブック人気には、Windows XPが新品で買える点も寄与しているのだろう。from ネットブックの次は「ネットトップ」 低性能・低価格PCブーム到来か?|デジタル流行通信 戸田覚|ダイヤモンド・オンライン

ネットブックの時代

C102B4ネットブックやネットトップはリセッショニスタのようなものかも知れない。あたしは今やネットブック(C102 )※1 をメインにデスクトップ環境をつくってしまい※2、外出仕事(モバイル)のときも、ネットブック+イーモバイル※3 で充足していたりする。

C102 をデスクトップ環境で使用してみるまでは、これは一時しのぎにしか過ぎないと考え、次のノートPCはなににしようかと品定めに時間を割いていた。

けれど今はそのつもりがまったくない。皆無、100%、C102 が壊れない限り。

それは、あたしの仕事がネットブック+デスクトップ環境(ディスプレイ+キーボード+マウス)で十分間に合ってしまっているからでしかなく、考えてみれば、仕事に必要なものはほとんどが外(インターネット上にあるストレージ)にあり、関与先にもそういう環境の構築を推奨してきたのだから、当然といえば当然でしかない。

そして今、ノートPCの売れ行き不振、デスクトップなんて誰が買うの(一部のゲーム用高機能機は面白いものがあるけれど)。

ただネットブックだけが好調な売れ行きを示してしまって、日本の大手各社もネットブック市場に参入してきている。TOSHIBAはDynabookの名をついにネットブックに与えてしまったけれど、先日TVで見た富士通の社員は、ネットブックだけなら利益はないと正直なことをいっていた。

オーバースペックが利益であった時代

時代、時代に最新のPCはあって、それは常にオーバースペックな性能をウリにしてきた。オーバースペックこそが進歩であると信じる時代は明治維新後ずっと続き、それは誰もが当然のことだと信じていたし、あたしもそう思っていた。

オーバースペックは無限の〈欲望〉循環の約束だ。どんな高性能でも慣れてしまえばフツーのこととなり、さらにもっと速いマシンが欲しくなる、と誰も思うはずだという約束である。

そうして進歩は果てしなく続く、それは「夢」――鉄腕アトムである。小さな100万馬力――という言葉に置き換えられた近代的進歩主義※4である。そうすることが人類の幸福だという単線的な思い込みである。

近代的進歩主義のパラダイムでは、オーバースペックこそが利益であった。ほんとはいらないかもしれない部分を買ってもらうことで生まれるものが利益である。使用価値は製造原価とイコールでも、余計な高性能が利益となるのは、工業化時代の定理である。

100万馬力に向かって進歩しているという「夢」こそが利益だったのであり、資本主義の推進エンジンであることになっていたのである。

PCカンブリア紀はこれからだ。

性能が逆戻りしているようなネットブックばかりが売れてしまう時代に、ぼろい儲けがないのは当然。

しかしそれは進化が止まったことであるわけもなく、なぜなら進歩と進化は違うからだ。進化はただ時間軸にそった変化でしかなく、地球が回っている限り、その地球に生命系のある限り、進化のアルゴリズムは止まらない。

その進化のアルゴリズムに沿うように、ネットブックのデスクトップ版が生まれ、製品も少しだけ賑やかになってきた。PCは間違いなく進化している。

ネットブックのデスクトップ版――それはネットトップと名指しされている。あたし的にはAVERATEC AVA8270N (一番上の写真)のデザインに惹かれるのは、ネットブックからニョキッとディスプレイが生えてきたような姿が、まるでカンブリア紀の生物のようだからだ。進化はデザインに宿る。

そう、カンブリア紀の生命爆破のように、多様化はこれから起こる――のかも知れない。

経済が好調であるというのは、ある特定種にとっての生存的に有利な環境でしかなく、種の多様化は起きにくく、種の多様性はむしろ否定されやすい。

カンブリア紀の前は全地球凍結であった。生命のほとんどが死滅した時代であった。世界的な金融危機と不況とは、生命のほとんどが死滅した全地球凍結の時代に例えられるかもしれない。

その過酷な環境のなかでも、生命の全滅がなかったのは幸運な偶然でしかないのだろうが、生き残った生命は、多様化、生命爆発のための準備を怠らなかった。過酷な環境こそが多様化のトリックスターであった。

あたしたちは、そんな時代に生きているのかもしれない。少なくともPCの世界ではそれが垣間見られるように思う。今はまだ全地球凍結の時代でしかなく、ネットブックもネットトップも進化系には違いないが、種としての爆発には至っていない。

PCの世界にもリセッショニスタは舞い降りている――しかしそれは同じような姿をした安いモノではない。

それはやがてくる生命爆破の予兆のようにだ。しかしそれが近代的進歩主義の単線上にはないと考えていた方がいいだろう。進化(変化)しているのはパラダイム――なのかも知れない。

ということで午前5時起床。浅草はくもり。 

※注記

  1. 近代的進歩主義というのはけっこう面倒な概念なのでここで説明するのはほぼ無理。興味があれば、村上泰亮:『反古典の政治経済学要綱』、第一章、第一条「進歩主義から決別しよう」を読むべし。この本は頗る付きの名著なんだけれど、アマゾンならなら中古で数百円で買える時代だ。読んでおいて損はないよ。