桃知商店よりのお知らせ

「世間」を装って象徴界に居座ろうとするものとはいったいだれのことでしょうか。への土建屋的返信。

re.jpg午前4時起床。浅草は晴れ。これは『世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」』 岡本薫 を読む。にいただいたコメントへの返信として書き始めたものなのだけれども、やたらと長くて冗長なテクストに自分でもうんざりし、見直しているうちに、コメント欄の小さな文字に納めるのも気が引けてエントリーとしてしまうことにしたものだ。

なのでいただいたコメントを読んでから、このエントリを読んでいただかないと(というよりもそうしてもらわないと)意味がわからないと思うのだけれども、しかしこれが返信なのかというと、そうでもないようなものでしかないのは、あたしのテクストの書き方によるもので、どうも返信は苦手なのである。


>「世間」を装って象徴界に居座ろうとするもの
>
>いったいだれのことでしょうか。

あたしは岡本薫さんのような「価値的相対主義者」ではなく、主義主張をいい、しかもそれは、このサイトに明記してあるように、「中小建設業と地域社会のために貢献します!!」であり、地方の小さな建設業(つまりはあたし自身)を擁護するためのものでしかなく、これが「世間」的に無視されることはあっても主流になることはまず間違いなくあり得ず、つまり「世間」を装い象徴界に居座りたくともできないでいるのがあたしです。

このサイトが細々とやっていることは、自らの力では衰退を破棄できない者、絶滅にむかっていく者、追い込まれた者の開き直りの思考であって、それはひとりでも多くの方々に、「中小建設業と地域社会」に興味をもっていただきたく、そして建設業界にも地元への目をもっていただきたく、地方の皆様にも地場の建設業への理解をもっていただきたいという望み――それは(ITを使って)建設業が自ら情報を発信すること、つまり自らの行動に修練してしまうのですが。

あたしにとって「世間」を装って象徴界に居座ろうとするもの

あたしのいう『「世間」を装って象徴界に居座ろうとするもの』とは、(あたしが)「正解の思い込み」と呼んでいるもので、その時代で主流といわれている考え方、主流になろうとする考え方、さらにいうならそれをを疑わずに、考えずに、「鵜呑み」してしまう、思考停止の自分自身です。なので「象徴の一部否定」を繰り返すのですが(時々忘れてしまいます)。

建設業界にはかつて、象徴――殿様や天皇や神様(のように機能する人)がいた時代がありましたが、それが、

>かろうじて残っていた「中景」(狭義の「世間」)が、遺物化――硬直化した円環になってしまていたからであって、「世間」にとっての鬱陶しいもの、なんだかわからないもの、「お盆のような世界」でしかなかった

ということです。それは小さな世間であり「ムラ的」です。今は税金の無駄遣いと非難される対象でしかありませんが、しかしこの小さな世間が機能することで地域社会の秩序は保たれて、働く者はそこで技能を磨き、自分がなにかしら社会の役に立っていると感じることができていた場所です(開発主義が機能した時代)。

その時分、あたしたちは沈黙を守りました。情報を発信しようなんて気持ちはさらさらありません。余所様には知られないように暗号だけで会話します。余所様にあたしらの存在を知らしめる必要はないのです。「ムラ的」なものはその共同体性が均衡しているときはなにも語りません。語る必要がないのです。

しかしこの10年で起きたことは、その小さな世間の破壊であって、そのことで、地方の建設業界は衰退し、細々とした公表事業でかろうじて維持・保存されていた地方での生活もすっかり様変わりしまったということです。それが小泉さんの時代に強烈に推進されたのは、他ならぬ世論、世間の後押しがあったからですが、私たちは相変わらず沈黙したままだったのは、世間との関わり方を知らなかったからです。

だからといって「世間」を恨むわけでもないのは、そんなわけのわからないものを恨んでもどうしようもないという諦め以上に、小さな建設業や地方がただ破壊される儘でしかなかったのは、建設業界(そして地方自治体)にも、自己否定する思考がなからと考えるからです。

地方の建設業の多くは自民党の支持者で、公共事業を否定する小泉さんのときにさえ自民党を支持し、しかしそのことで自らを窮地に追い込んでしまったのは、自分で自分の首を絞めたに等しいのですが、それは大きな「世間」の流れにも、建設業界(小さな世間)の流れにも従順だけれども、考えることのない、思考停止ゆえの哀しさ、自己否定、種との対立のない社会の辛さ、自らの窮地になにもできなかった哀しさ。ただあたしたちは疲弊してしまっているのです。

もちろん建設業界も自ら変化しようとしてきたけれど、それが「正解」です、というセールストークに踊らされたのは、これも考えることのなかった哀しさか、発注者からいわれた方向へ身体がかってに進んでしまうのは、発注者は一番偉い象徴だったからです。

けれどそこで待ち受けていたものはベスト・ソリューション(正解)のセールスマンでしかなく(多くは欧米生まれのマネジメントシステム。例えばCALSやISO)。それを買うことで状況が一転するようなセールストークに、少なからぬお金を払い、その「正解」なるものを買い求めれば、しかしそれも「正解の思い込み」でしかなく、お金を失い借金が増えました。

こんな案配で生きてきたあたしにとって、『「世間」を装って象徴界に居座ろうとするもの』とは、建設業的な生き方を否定しながら、その否定の先で待っている「正解」を売るセールスマンのようなものと、それを疑いもなく受け入れるあたし自身の思考停止ということになるかと思います。

あたしは今でも覚えています。次年度から全部の工事を一般競争入札にするという某市に対して抗議をすれば、それは「世間の流れです」と答えた為政者を。 「世間」を語られることは恐いことです。

ただあと10年もすれば、こんなことを考える必要はないのかもしれず、その頃には、地方のあり方も変わっていることでしょうし、地方の建設業界は、その存在すら忘れられたものになっているかもしれません。

あたしにとっての「街的」のこと

あたしは江弘毅の「街的」という言葉を援用していますが、それは江の主義主張の援用ではなく、江のテクストにある、なんだかわからないものを言葉にしようとする苦悩のあとへの敬意です。あたしは「街的」には主義主張はないと考えています。主義主張が必要なのは、あたしのように「街的」のネットワーク図を、意図的に他の共同体に持ち込もうとする者だけですが、そのネットワーク図を書くのは、なんだかわからないものを言葉にしようとするような作業です。

建設業や地方は、「街的」ではなく「ムラ的」なのですが、「ムラ的」は建設業界では機能してはいけないことになっています。機能させると談合といわれてしまいます。しかしあたしらが共同体性を捨て去ることができないのは、あたしらの小ささ故のESS的戦略なのですが、あたしらは食物連鎖のてっぺんにいるわけもなく、であればこの共同体は今、質的な変化をしているのだろう、しなくてはならないのだろうと。

「街的」は「ムラ的」とは全く違うものであることで「ムラ的」出身のあたしにはなんだかわからないものであり、ましやて江のパトリである岸和田も、守備範囲である京都も大阪も観光目的以外には知りませんから、江弘毅のテクストを読むときには、まず浅草的に翻訳しています。浅草的というのは、浅草生まれでもなく、浅草育ちでもないあたしが、浅草に棲んでいることで感じている個人的な心象でしかありません。

かつては時代の最先端をいっていた浅草も、ダメになったといわれているようですが、それはダメになったのではなく、ただ渋谷や新宿の繁栄とは違う繁昌の仕方をしているのであり、ダメの基準が違うだけであり、新宿や渋谷のようになる必要がないということでもあり、浅草がまだ浅草の儘だからそうなっているということでもあり、それは浅草がもっている土地の力としかいいようがないものです。

そこであたしが感じているのは、都会的な冷淡さとその裏返しにあるしたたかさであって、浅草はけっして人情味に溢れているわけではなく、しかしアジールであるが故に、余所からこられた方は、そのアジール性を人情味のある街と感じるのだろうなというようなもので、それはこの街に棲む人たちの多くが広義の自営業者だからだと考えています。

それは身も蓋もないリアリズム、密集地で商売をしている人々のもつある種の能動的ニヒリズム、他人を簡単に信用することもなく、誰かまわず他人にいれ込むこともなく、用心深く、臆病で、皮肉っぽく、底意地の悪さもちあわせ、一瞥でなにもかも見ぬいてしまうような怖さを持った方が沢山いたりして、けれどそれがけっして露骨にならず、節操や、ある種のあきらめのよさが身についているのは、客商売故、かといって新宿や渋谷の商売とはあきらかに違うひととなり。これらは浅草がもっている土地の力かと。

あたしは「ムラ的」にではなく、土地の力をネットワーク的に構築しようとする者であって、それがうまくいくかどうかの実験が、まずこのサイトであり、さらに各地で展開を試みています。けれども、それが建設業にとっていいことなのか悪いことなのかはわからないのです。ただ追い詰められたものとしての試みです。できれば「ムラ的」の方がいいに決まっているのです。

Comments [2]

No.1

ももちさん

わざわざご返事ありがとうございます。
心からお礼申し上げます。
このご返事の玩味にはかなりの時間をかけるつもりです。
万が一、なんらかの感想やコメントをするにしてもかなり先になるかと思われます。
はやとちりや誤解のないように、ももちさんの考えていることを過去にさかのぼって一から読み直してみたい思いますので。

豚インフルエンザなど流行っておりますが、どうかお身体にお気をつけて、これからもびしばしとしたご批評を期待しております。

敬具


No.2

あ、ももちさんのコメントへの返事ではないのですが、もひとつ付け加えさせていただきます。

もはや時代は左翼か右翼かという弁別の時代でわなく、(そんな弁別をわたしゃしたことがないですが)
街場か世間かという対立軸だ! というモンダイ意識をわたしゃもってるんです。

つまし時代はもはやイデオロギー対立の時代でわなく、排除論のどの位置に立っているのかという人間存在のキワメテこんぽん的な問題を俎上にあげつつあるのだとわたしゃおもっております。

よって左翼的朝日新聞的良識的言説が「世間」であることは往々にしてあるし、右翼的やくざ的言説がおうおうにして「街場」であることもある。
いままで「街場」的に語っていたものが突如、「世間」の相貌を見せることもある。
さらには内田さんや江さんのように「世間」が「街場」を装うこともある。そうなると、ただでさえ少ないほんとうの街場がどんどん縮小される。
わたしにとって大事な大事な街場的なアジール。それを守りたい。そう思っています。

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