上きもめし
上きもめし 1890円
 撮影したカメラ SO905iCS +Orton風 by Picnik 


6月4日の昼餉はアミーゴはしべさんに連れられ一力うなぎへ行けばウナギの店ではじめてみる品書きがありそれは「きもめし」と名付けられている。

つまりはあたしがうなぎ屋で焼いたり煮たりしてもらっては酒肴にしている鰻の肝を鰻の身と同等に扱い、いやそれどころかネーミングは「きもめし」なのだからむしろメインは肝かも知れず、あたしは正直邪道じゃねぇかと思ったのだけれど、店のお姉さんにお勧めはと聞けばほかならぬ「きもめし」らしくついつい「きもめし」(それも上)を頼んだのである。汁物はご汁を選ぶ。

ご汁
ご汁 これは浅草の鰻やにはない。「かなしい」を纏う汁物だ。
 撮影したカメラ SO905iCS +Orton風 by Picnik 

出てきた「きもめし」は肝に付随しているはずの「かなしい」※1は不足気味だけれども「作品」※2にはなっていると思う(「ご汁」は十分に「かなしい」)。つまり「売るものさえあれば売れる」※3というべらぼうな物言いの(あたしの云う)「売れるもの」である。

それは宮崎らしくかなり甘めであり、切断された鰻であり、江戸前とは製法が違うけれど※4、甘い鰻が大好きなあたし的にはうまいと思ったし、あたしのお気に入りである近所の「鈴音」※5に同じものをつくって貰おうかな等と妄想もふくらむぐらいの創造性も持ち合わせている。うまいことやってるなと感心する。

けれど「かなしい」が足りないのは、たとえば「ネッカリッチ」うなぎを語ってしまっていることで、つまりは店に説明が少々過剰感が漂うのだ。

そのことでどこかで「街的」から意図的に遠くなろうとしているように思える。

「作品」には物語は必要だが、説明は時に過剰な装飾になってしまう。過剰な装飾は「作品」の本質を損ない兼ねず、「作品」は「作品」(作品をハブとしたネットワークを含む)に語ってもらえばよいのである。

食い物屋がある種の強度(「街的」)をもって人を惹きつけるというのは「説明」ではできやしないのだ。

しかしそれは情報を発信することを否定しているのではない。

「作品」は常に情報を発信し続けている。

しかし情報がカタログ的な「説明」でしかないと思っているから情報(発信)はつまらないものになるのだ(たぶん)。 

これは地方にある店にはよくみられることなのだが、その方が地方の方々にはウケがいいのかもしれないが、あたし的にはもったいないことだと思う。けれどもそれもあたしの個人的な心象でしかないのだけれども。

一力うなぎ [ うなぎ ] - Yahoo!グルメ
宮崎県宮崎市和知川原1丁目12
0985-24-8964
一力うなぎ
撮影したカメラ VQ1015 Entry


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※注記

  1. 『かなしいというのは、痛いとか苦しいとかそういうものでなく、それは「誰かと別れること」や「何かをあきらめること」の必然的で根源的なかなしさです。そのかなしさが、わたしら街的人間をタフにするのでしょう。』 (江弘毅:「都会」に住むのと「街」に住むのとは違う。そこを分からんとなぁ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡
    そして 「街的」が見えない人は「かなしい」が足りないのだ。 参照
  2. あたしはある種の「商品」を「作品」と呼んでいる。その定義は未だにあやふやなのだが、ひとついえるのは「ハブ」であること。つまりその「作品」を中心にネットワークを構築できること、人と人とを結びつけることができるもの。
  3. 人間は情報がないと身動きがとれない。 参照
  4. 西都市のうなぎの入船は何故人をひきよせるのか。 参照
  5. 鈴音のうな重。(浅草5丁目:千束通り商店街) 参照