1週間ほど前に書いた『日本の国宝、最初はこんな色だった』 小林泰三を読む。に著者の小林泰三さんからコメントをいただいた。小林さんのブログでも取り上げていただいている。
書評に作者自らコメントをいただいたのは、「街的」ということ。の江弘毅以来なのだが、こんなふうにブログの偶有性は機能し、双方向のコミュニケーションの可能性は芽生える(こともある)。あたしがブログを書いている理由はこれにつきてしまう(たぶん)。
例えば江弘毅とはそれ以来のつきあいが生まれ、今では一緒に酒を飲み、往復書簡をやりとりし(あー、返信書いてねーよ)、あたしは140B のWeb監督だったりしている(たいしたことはしてないけれど)。
しかしこれは双方向のノリのよさ、波長が合うというやつであって、小林さんとのつきあいはこれからどうなるのかなんて考えるわけもなく、ただ(ブログを縁にした)デジタルな関係は「見つけられる技術」=ファインダビリティ※1からしかはじまらないよなと(見つけられないようにブログをお望みなら別だが)。
とくにこのサイトでの「書評」の初期アクセス数は少なく、一日平均1486ユニークアクセス、3340
それはまだしも「ブログの技術」のエントリーはもっと少なかったりするわけで、だからこそブログの面白さは検索され偶有的に読まれることにある。
検索されて見つけられること。
あたしのことばでは「データベース的に書くこと」。
しかしその技術さえ「デジタルの領域では、言葉というものに頼る度合いが非常に大きい。ラベルとしての言葉。リンクとしての言葉。キーワードという言葉。」※1に収斂してしまう。
これは印刷されたテクストにはない、横書きの、デジタルな、ブログの技術だが、しかしそれが日本語で書かれる限り日本語の構造を超えることもない。ということで午前5時起床。浅草は雨上がりのくもり。
※注記
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ファインダビリティ find・a・bil・i・ty
a・設置特定可能な、あるいは進路決定可能な性質。
b・特定の対象物の発見しやすさ、あるいは位置の識別のしやすさの度合い。
c・システムまたは環境が対応している進路決定と検索のしやすさの度合い。
…ファインダビリティが必要とするのは定義、区別、差異である。物理的環境では、大きさ、形、色、位置が対象物を区別している。それに対してデジタルの領域では、言葉というものに頼る度合いが非常に大きい。ラベルとしての言葉。リンクとしての言葉。キーワードという言葉。(ピーター・モービル:『アンビエント・ファインダビリティ』:p5) アンビエント・ファインダビリティ―情報リテラシとしてのみつけやすさ。 参照