湯上り娘
湯上り娘のおいしい茹で方は「湯上り娘。(新潟県の枝豆)」参照
カメラ LUMIX DMC-FZ8 +素粒子 by Picnik


自己と自我午前6時起床。浅草は晴れ。昨晩は隣町も揺れる墨堤の花火の日で、うちの町内会は爆音と人に溢れていた。

あたしは(たぶん)1000000人ぐらいはいるその人々の中に身を置き、酒でこわれた自我をいいことにただ無意識的に(というか機械的に)新潟からが届いた(by うどん星人二合さん)「湯上り娘」を食べていた。

あたしの無意識層――つまり自己ってやつは、既に青年期のあの異性を求める競争から生まれるのであろう荒々しい野生は姿をけし、ただ光と音と喧噪と、そういうものに溶け込むあたしを許すのだけれども、あたしは40歳を過ぎるまで、こういうもの(つまり人出に溶けながらビールを呑み枝豆を食べながら花火をみるなんてこと)はずっと苦手だったのだ。

それは強すぎる自我故のことなんだろうが、それが生きていくにはあんまり役に立たないことは、歳をとるごとに少しずつわかるようになる(たぶん)。年寄りが(ある意味)若者よりも動物的(けれど社会的)であるのは、自我を消せるからだろうが、であれば自己と自我は相互作用している。

湯上り娘

湯上がり娘に自我があるわけもなく、それはなによりも植物であるからだが、ただ植物のダーウィニズムとは、育ってきた環境が違うからすれ違いは否めないでしかなく、そのすれ違い=差異こそがこの枝豆の種=自己であって、この香りのよい枝豆を短い時間で茹で上げ、団扇で粗熱を取るときの鼻腔に充満する香りも、ばらっと粗塩を振り、はじくように豆を口に入れたときの味覚も、野生である、しかしそれは管理された野生である。

湯上り娘
カメラ LUMIX DMC-FZ8 +素粒子 by Picnik