テスト氏,未完の物語

テスト氏,未完の物語 (古典文庫 3)

ポール・アンブロイズ・ヴァレリー (著)
粟津 則雄 (訳)

1967年5月31日
現代思潮新社

2520円(税込)


(略) 最近 この本(だけではないが)にインスパイアされ読み始めたのが 23日の戯言に紹介した『テスト氏,未完の物語』だ。立花はこんなことを言っている

『ヴァレリーの「テスト氏との一夜」を読んだことがある人はどれくらいいますか?(手をあげる人なし)』

『まあ、いまどきヴァレリーを読もうという人はあまりいないのかもしれないけど、この人は、一九四五年に亡くなって、死んでから半世紀以上たつわけですが、いまでも十分に読む価値のある人です。』(p120)

(手をあげる人なし)っていうのは 当時立花の授業を受けていた東大生で それは うひゃひゃひゃひゃ であるのだが 勿論わたしも読んだことがなかったのだから とやかく言える立場でもない

(略)つまり じつはもうひとつ背中を押したものがあったわけだ
(略)
それには ヴァレリーの青年期を「眼高手低」(理念に実行が伴わないこと 香山リカの言っていた 自信がないけれども変にプライドが高いだ)との解析があった(それがひきこもりの入り口に立った青年の多くの思いだ)
それで このヴァレリー ひきこもり期間が二十代から五十歳までとやたらと長い

この本を初めて読んだのは2005年9月のことであり、約4年程前にこんなこと(上記引用)を書いてから、繰り返し、何度も、この本を読んできた。そして読む度に、あたしのテスト氏はやってきて、理念に実行が伴わないんだよ、とあたしは身悶えしたりするのだ。まるで青年のように。

しかしあたしがバレリーのように「ひきこもり」に至らなかったのは、ロラン・バルトにいわせればこうなる。

自分の内部にある障壁や階級や排他性を、統合主義によってではなく、ただ論理的矛盾というあの古くさい亡霊をお払い箱にするだけでなくしてしまうような(テスト氏※1を裏返したような)人物を想像してみよう。相容れないと思われても、あらゆる言語活動ランガージュを混ぜ合わせてしまうような、没論理、無節操といった非難に黙々と耐えているような、(自家撞着するという最高の恥辱に相手を導く)ソクラテス的なイロニーや合法的なテロ(心理的一貫性といったものに基づく刑事証拠がなんと多いことか)を前にしても動じないような人物を。※2

つまりあたしは『テスト氏を裏返したような』人物として育ち、それをあたしは町内会主義者(つまり「街的」な人)と呼んでいる。そしてそうなることを(あたしが)意図したり望んだりしたのかは知らないが、町内会主義者であることが、じつは『相容れないと思われても、あらゆる言語活動ランガージュを混ぜ合わせてしまうような、没論理、無節操といった非難に黙々と耐えているような』ことなのであって、そのために(「街的」を主張する一貫性はあるけれども)、その一貫性を護持しようとすればするほど、あたしの態度は一貫性を保ち得ないのである。

だから「街的」を語る者(あたしのことだ)が浅学の論理を使ったりするのは、そうでもしないことには、己の一貫性の無さにうんざりしてしまうか、思わず宗派を替えてしまいそうだからであって、そのときあたしは「テスト氏」に近づく。

しかし「街的」は哲学や科学の外部にあって、つまり「テスト氏」が「街的」には棲むのは根性が要るで※3、なのだと思う(たぶん)。ということで午前8時起床。浅草は晴れ。 

※注記

  1. ロラン・バルト:『テクストの快楽』の訳註にはこうある
    「ポール・ヴァレリーの創造した人物。『テスト氏との一夜』等の作品に登場する厳密の魔の典型。」(p127)
  2. ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p5-6 
  3. 「街的」を書くには、ちょっと根性が要るで。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡 参照