浅草の桃知利男さんと、バッキー井上『京都店特撰~たとえあなたが行かなくても店の明かりは灯ってる。』の出版記念イベント「読者のつどい@浅草」の打ち合わせを、あの[居酒屋浩司]にて。 from:編集集団140Bブログ - 浅草はバッキーとあなたを待つ。
山田町特産青大豆使用かかし豆腐「緑のめぐみ」を酒肴に居酒屋浩司で中島社長と呑んでいた夜※1、バッキー井上本のゲラを眺めながら思うのは、やっぱり日本語は縦書きだよな、ということであって、まあそれはずっと昔からのあたしの主張だから詳しくは関連するエントリー※2 でも読んでちょうだいと端折るけれど、居酒屋のピラも基本は縦書きなのであり、けれどWebの世界に縦書きはほぼ皆無である。
Webで展開されている『京都店特撰』は横書きで、それでもあたしはかなり喜んで読んでいたのだが、これが縦書きになった途端、井上さんのテクストの、個人的な、体質的な、つまり(バッキー井上の)
そこでの井上さんは、(あたし的には)じつに才能のあるウソつきであることを隠そうとはしない。縦書きの綴りは、天才といっていい見事なウソのつきっぷりを際立たせてしまう。
けれどそのウソは、だますこととはちがう。バッキーさんのウソはウソのためのウソであり、ひとつの存在様式、または美学なのである。
それはあたしが中島社長と呑みながら、でかい声で云っていたことであって、テクストはウソでいいんだよと(というかテクストは根源的に嘘つきなんだよと)。だからといって、それを虚構だなどと強調してみせるのは、阿保のやることなのだ(たぶん)と。
だから「だまされてみなさい。」とあたしは云う(自家撞着的に)。それが「街的」なテクストの読み方なのである。井上さんの「街的」なテクストの基底には、京都の、大阪の、今ここでしか得られない「街的」な店がある。
そんな店を実際に体験して見なさいとあたしは(無責任に)云う(と同時に浅草で同じことをあたしは云い続けてきた)。それは浅草でも京都でも大阪でもある必要はなく、つまり貴方の街のである。
ただ貴方がそこで感じるものが何かはあたしは知らない(単純な二項区分の、うまい/まずい、高い/安い and etc.でないことを願うだけだ)けれど、ただそういう(「街的」という)強度ある次元の中に自らを置いたとき、立ち上がってくるのものが貴方自身だってことだよと。
『相容れないと思われても、あらゆる
言語活動 を混ぜ合わせてしまうような、没論理、無節操といった非難に黙々と耐えているような』ことなのであって、そのために(「街的」を主張する一貫性はあるけれども)、その一貫性を護持しようとすればするほど、あたしの態度は一貫性を保ち得ないのである。※5
9月12日(土) 桃組勉強会&遅めの暑気払い
バッキー井上 『京都店特撰~たとえあなたが行かなくても店の明かりは灯ってる。』の出版記念イベント「読者のつどい@浅草」は9月12日に桃組勉強会&遅めの暑気払いとして行う。
もちろん最近楽しんでいる自由発表もやりたいし、中島社長が書いているように、あたしはそこで鼎談をするかもしれないのだが、決まっているのは、その日、浅草に、居酒屋浩司に、バッキー井上さんがいるってことだ。
そしてもうひとつ。9月12日は、「たとえあなたが行かなくても店の明かりは灯ってる。」とあたしも気取ってみたいのだけれども、皆さんが来てくれないことには、残念ながら店の灯りはともらないのもたしかなのだな。
※注記
- 山田町特産青大豆使用かかし豆腐「緑のめぐみ」。(宮崎県北諸県郡山田町) 参照
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www.momoti.com での 日本語 縦書き の検索結果
上の検索の表示されないものでは、特に左脳で虫の音を聞く、若しくは「音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える」(ジャック・ラカン)かな
ついでに書くと、水村美苗さんには『私小説 from left to right』という小説があって、これは横書きで、その名の通り from left to rightに読む小説 であるのは、日本語と英語のハイブリッドで書かれたテクストだからだが、この小説、読んでいると気分が悪くなっている - 国語と文体は(基本的には)自分ではどうしようもないものだ
- 規模の大小を問わず(一小村から数カ国にもわたるものまである)、ある共同体(地域、社会集団)が共有に用いている言語体を
特有言語 という - 『テスト氏との一夜』 ポール・ヴァレリーを読む。 参照