とろける鉄工所(10) <完>

とろける鉄工所(10) <完> (イブニングKC)<完> (イブニングKC)

2013年6月21日

野村宗弘
株式会社 講談社

600円(税別)

 


とろける鉄工所(10) <完>

午前6時35分起床。浅草は晴れ。『とろける鉄鋼所』が終わった。全10巻、あたしはよく途中で飽きることもなく、(珍しく)全て読んだが、シリーズ揃っていい本だ、と思うのだ(漫画だけれども)。

この本を初めて知ったのは、2009年の4月、岩井さんのところのブログ記事からであって、あたしはその時こんなことを書いていた。

最近、「作品」としてまとめることの大切さのようなことを(今更ながらに)考えるようになり、つまりこのブログのように、思考のプロセスを書き連ねる、メモ書きの集合体のようなものではなく、例えば一冊の本にすること。例えば文字ではなく、絵とか、写真とか、インタラクションのようなものにすること。思考・創造性をひとつの「作品」とすること。そんなことを漠然と考えていた。
それはブログというかWebの限界のようなものを感じているのか、といえばそうであるかもしれず、いや違う、とえば、違うのかもしれない。
『とろける鉄工所』を読んで、そしてこの漫画を読むことになった経緯を考えて感じたことは、「作品」(一冊の本)となることは、ネットワークのHUBになることなのだなと思う。『とろける鉄工所』 野村宗弘を読む。 from モモログ

2009年4月と云えば、あたしはまだ脳梗塞で入院前の記録であり、当時のあたしはHUBになるものとはなにか、を考えていたらしい。しかしその実は、なにを考えていたのかはよく分からない、というのが正解なのだが、あれから4年経ってひとつの作品が終わったのだ。

しかしこの作品は特別の物語があって終わったわけでもなく、ただ歴史を刻む一時のように、黙々と終わっていくのである。なんとも不思議な終わりかただと思うのだが、まあ、そんな終わり方がある、ということをあたしに知らせた作品なのだ。