7月13日盛岡での講演資料。

060713盛岡での講演資料をアップした。ご自由にお使いください。

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(以下、講演内容についての自己言及的反省)

10年前を考えてみよう

最初のキーワードは「10年」である。これは、最近の講演ではよく使っているもので、つまり10年前のことを考えてみよう、と云うことだ。

私がはじめてインターネットに接続したのは、たぶん1994年のことで、その頃Windowsは、まだ3.1であり、かなり苦労して、インターネットと云うものを体験した記憶がある。

その後Windows95が発売され、インターネットはより身近なものとなったが、ネットスケープナビゲーター(ブラウザ)は有料であり(無料のIEよりはかなり優れていた)、回線スピードは遅く、ISPに支払う料金も安いものではなかった。つまりコストの高い遊びだった。

しかし、インターネットは楽しかった。それは何よりも、

  • 自発性(ボランティア
  • 草の根(グラスルーツ)
  • 開放系(オープン)

と云うような、「インターネットの精神文化」と呼ばれるような、「文化」の存在を感じることができたからであり、当時の私の仕事(建設業)の対極のような世界として、新鮮に映ったからだ。なにか新しいものが、そこには「ある」と感じることができた。

しかし、私の生活において、10年前はまだ、リアルな生活とインターネットには断絶があった。インターネットはたしかに「ある」。しかしそれは、私のリアルな生活とは無縁だった。「インターネット精神文化」は、ただのユートピア論のようなものでしかなかった。

時代は、キアスム的に変化する

それから10年以上の歳月が流れた。皆さんも、インターネットとリアルな生活の断絶感は、10年前に比べたら、驚くほど無くなっていることに気づかれるだろう。それは、「Web化する現実」あり、「現実化するWeb」なのである。それを私は、キアスム図式を使って理解している。

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つまり、時代は「バーチャル/リアル」と云う二項対立(表裏)を持ったまま、線形に推移しているわけではなく、表裏が「ひねり」を持ってハイブリッドされるように、非線形に螺旋形に推移してきている。

無理だと云われてきた建設CALSでさえ、電子入札や電子納品に限れば、現実化していることを考えてみればよいだろう。「時代は変わる」のである。

環境

私は、今と云う時代の建設業を考えるとき、この、「Web化する現実」「現実化するWeb」の意味するところを、今と云う時代――つまり「環境」――として考えている。例えば、インターネットの精神文化を、「カリフォルニア・イデオロギー」として置き換えてみれば、理解しやすいだろう。

  • 反体制的イデオロギー
  • 資本主義のゲームを全肯定するリバタリアン
  • 無邪気な技術信仰

つまり公共事業という産業を含む「体制」は、リバタリアニズムのOS化と共に否定され、市場原理化が進んでおり、無邪気な技術信仰(例えば、Google)が、世界のハブ(つまり中心)のように振舞うことで、それを支えている、と云うことだ――今や、インターネットの世界では、Googleの検索結果に存在しないことは、インターネットに「存在しない」ことと同じである。グーグル八分――。

私は、今、リアルな世界で起きてることを、リバタリアニズムのOS化(東浩紀の云う意味で)として捉えている。そしてそれを情報技術が支えている、と考えている――若しくは情報技術は時代の精神を反映している――。

Web化する現実、現実化するWeb

日本においては、その端的なものが「構造改革」であろう。構造とは、体制であり、中景であり、灰色であり、日本的な「種」であり、(インターネットの四象限分割では)第四象限に位置するものだ。

例えば、公共事業という産業の場合、その存在そのものが「構造」なのであり、構造改革によるその否定は、入札制度における市場原理の導入、「協会」存続の危機、「土木部」の権限の衰退、そして発注高/受注高の現象、利益率の減少、その集積としての地域の衰退となって表出している。

これは、「Web化する現実」「現実化するWeb」がもたらした「暗」の部分だろう。そう考えなられない方々も多いのだが、ここでは、確かに、「インターネットの精神文化」は機能している。

しかし、だからと云って、インターネットを否定してみてもしょうがない。現に環境は、「Web化する現実」「現実化するWeb」化している。私の周りには、「だから、わたしゃ、インターネットなんて使わない」と云う方々が多いのだが、それで環境が好転するわけもない。

逆に環境が見えないことで、現状認識ができなくなるだけであろう――IT化を否定される方は、否定するのであれば、もっと現実に目を向けるべきである。情報を見る目を持って――。

では、このような環境において、公共事業という産業は、「Web化する現実」とどう付き合っていけばよいのだろうか――それが私の云う「IT化」の本質である――。

Web2.0

ここではインターネット――今や環境と同義である――の理解としてWeb2.0ミームを使う。(Web2.0ミームについてはこちらを参照)。Web2.0ミームは、ミームと名付けられていることからもわかるように、ダーウィニズム的アルゴリズムで、進化し続けている「インターネットの精神文化」の現在形だと理解していただければよいだろう。

Web2.0ミームは、体制を壊すことによる「フラット化」を志向している。Taggingは、分類(名付け、指し示し)を権威の手から取り上げ、Googleは既存の権威(体制)の破壊と、秩序の再構築を狙うかのように振舞う。

ただし、そこには資本主義のゲームを全肯定するリバタリアンの精神は生きているので、政治・経済の面では、アダム・スミス的な古典的資本主義の性格が表出し、貧/富、勝ち組/負け組の格差は生まれやすい(スケールフリー化)。

例えば、Web2.0ミームのひとつである「ロングテール」とは、Googie AdSense――Googleは巨大な広告代理店である――や、Amazonアフリエイト見ればわかるように、リンクの少ない無数のサイトを、広告媒体として抱込んでしまっているに過ぎない――だからGoogleやAmazonにとっては、ロングテールであろうがなかろうが、サイトは多いにこしたことはないのだ。そのための仕掛けづくりを彼らは行ってきたし、それは今や、何の疑いもなく使える、ブログアクセサリーである――。

customer self-service enabling the long tail
ロングテールを巻き込むために、ユーザーが自分でできる機能を与える。

批判的に見れば、Web2.0ミームは、「フラット化」を志向することで、日本的な「種」を擁護しようとする方々にとっては"とんでもないもの"でしかないだろう。しかし、これは紛れもなく、「時代の精神」を反映している。つまり、公共事業という産業が、市民社会――と云うよりも「世間」だろうか――から理解を得るとは、このような「時代の精神」からの理解でしかない。

さらに、われわれ(公共事業という産業)は、この時代に、ノングローバル、ノンコミュニティの「第四象限」に居ることで"どぼん"であるのだが、なぜ"どぼん"なのかを考えてみればよい。それは政治・経済的には大きな存在であるにも関わらず、あまりにも密室的――情報を何も発信していないと同義でしかない不気味な存在――だからである。

私のIT化はまず、IT(イントラネット)を使って中景(種)をつくろうとする――例えば「7月22日岩見沢建設協会での勉強会資料(サイボウズについて)」を参照いただきたい。そこでは、第四象限を否定はしない――。

それが協会イントラネットや企業が使うイントラネットのもつ意味である。これは「IT化」として、このイベントに(協会員や社員)全員が「たずさわる」ことで、共同体性(「われわれ」の意識)を再構築するものだ。

共同体性は「依って立つ大地」であり、変化への足場である。「私」は、この「われわれ」を通して世界とつながり、「私」化(個体化)できる。

しかし、イントラネットは閉じたネットワークであり、"外とつながらない"と云う欠点を持つ。つまり密室なのである。そこでキアスム的な"ひねり"を加える。そのひねり(トリックスター)が、(今は)Web2.0ミームなのである。Web2.0は否定しても仕方がない。それは今「ある」現実なのだ。しかし単純には受け入れはしない象徴の一部否定――否定的受容(つまりちょっと創造性を働かせて見る)――が必要なのである。

それを事例的に説明をしたが、それが例えばブログ化したこのサイトであり、裏浅草グルメマップである――わかる人はわかるだろう――。

自ら、動き出そう

そして大切なことは、今や発注者に過剰な期待は禁物である、と云うことだ――フラット化は、彼らの権威と自信を奪い取ってしまった――。彼らは自己保身で忙しいのである。

であれば、その環境(市民社会とのコミュニケーション環境)は、われわれが構築し、実装し、発注者や市民に対してサービスとして提供する、という意識が必要だろう。待っていても、なにも起きないのが"どぼん"のどぼんたる所以なのである。