情熱としての創造性―5月19日チームバイタリジェンス in 仙台での即興的PPT

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午前6時30分起床。浅草は晴れ。

仙台にて

5月19日は、仙台で開催された「チームバイタリジェンス in 仙台」に参加させていただいた。それは、アトム(八木博)さんが、岩見沢での葉月会の勉強会においでいただいたことへの贈与的お返しとしてである。

なので、お話し(発表)をするつもりはさらさらなかったのだが、当日アトムさんから15分~20分で何か話しをするように、とのご指示があり、そこで即興的につくったPPTが以下なのである。(今回アップするに際してちょっとだけ修正しているが、それは例によって修正する以前とたいしてかわらない)。

パッションを世界へ

チームバイタリジェンス in 仙台のテーマは「パッションを世界へ」であった。チームバイタリジェンスの目指すところは「個の活性化」だと(私は)理解している。では、個のパッション(情熱)は如何に世界とつながるのか、をテーマにお話しをさせていただいた。

ライプニッツ的個

バロックの館まず、「個=個人」の定義からはじめた。(私的には)それは「ライプニッツ的個」でしかないわけで、それは「バロックの館―モナド」のことである。

つまり、モナドには、窓も戸口もない。(バロックの館の二階部分)。

故に、モナドとしての個人が、世界とつながるためには一階部分が必要なのであり、窓も戸口もない単なる粒子のような個人が、(いくら自己努力をしてみても)、種的基体をもたずに世界とつながることは難しいのである。

パトリ

この部分は、チームバイタリジェンスの方々の中にも、誤解されている方が多いように(私は)思う。個人が活性化するには、その足場となる拠って立つ地面―― 一階部分が必要なのである。それがパトリである。

パトリは「種の論理」でいう「類-種-個」の「種」であり基体である。それは私を育んでくれる(た)処(基体)であり、私がジャンプするための足場である。例えばそれは、故郷や学び舎、そして職業的、技術的な基体ということだ。

CG空間の4つの象限

CG空間の4象限それをグローバルとコミュニティという2つの軸をもって象限として考えてみれば、個が何らかの創造性(情熱)をもって、世界とつながる窓は第3象限に開いているといえるだろう――グローバル性。

そのもっとも分かりやすい――個の創造性・情熱が世界とつながる――例が芸術なのであって、芸術は簡単に国境を越えてしまう。

それを岡本太郎の「合理に非合理を突きつけ無償を爆発させる」という定義にしたがって解釈できれば、その運動を支えているのは第4象限としての共同体性(種)なのである。

共同体性の破壊 

しかし今と言う時代は、個の存在を強調することで、ムラ社会的な閉鎖性(の弊害)ばかりが強調されてる。そのことで、我々に最低限必要であるはずの共同体性(贈与の原理の温床である)まで破壊してしまっている。

デジキャラット――そのことで、今の時代の創造性は、機械的なブリコラージュ、マッシュアップが全盛となってしまっている。(オタク的才能――としてのマッシュアップ→デジコ)。

今回はそのような流れとしての、「村上隆のDOB」、「アールブリュット」への高い評価を例示してみた。これらは、同じ構造をもつ創造性であり、国境を越えて支持もされている。

ITが普通にある時代の創造性―マッシュアップへ

それらは同じ創造性の構造――デコード→エンコードの仕組み――をもつ(ことで世界とつながってもいる)。また同じ創造性の構造をもつ「ギャル文字」は、極めてドメスティック(日本国内限定と言う意味で)なものでしかないが、第3象限に窓を開いている。

そして今回、即興的につくってみたのは、例によって photocinema であって、それは当日の会場の風景である。(当日のBGMは山下達郎の「ANGEL」を使ったが今回アップしたものは曲を変えてある)。

この機械的な創造(マッシュアップ)も、「アールブリュット」や「ギャル文字」と同じ構造をもっている――すなわち(機械的な)創造性は万人に開かれている時代であることで、(個人は)独自性を保つことが難しい時代なのである。

つまりここでは、今の時代に、個人が情熱としての創造性を持って世界とつながる、ということはどういうことなのだろか、という疑問を提示してみたわけだ。

つまり中途半端な創造性は、今や機械的に(工学的に)可能なのである――が、果たしてそれは、情熱として創造性足りえているのだろうか、それは世界とつながるのか、ということだ。

モナド 

この機械的な創造性が満ち溢れた時代に、私達はなにをもって、私の「パッションを世界へ」届けることが出来るのだろうか。

(私は)ここでまた、岡本太郎の「合理に非合理を突きつけ無償を爆発させる」という言葉を援用したいのだ。

(そしてこれが講演の後に付け足した図なのだが)(↓)は普遍経済学モデルに、岡本太郎の示している、合理、非合理、無償という3つの言葉をあてはめてみたものである。

岡本太郎と普遍経済学

つまり、この合理性に満ち溢れた時代に――だからこそ、贈与と純粋贈与の復活は必要なのである。

この意味が理解できるのであれば、私達は「ライプニッツ的個」の自覚を持って、共同体性(それは想像界的接続――へその緒の接続だけを意味しないのだが、当然そんなことに触れる時間はなかった)――種的基体(贈与共同体)の必要性を理解できるのではないだろうか。

そしてチームバイタリジェンスは、是非、種的基体(バロックの館の1階部分)として機能されることを(私は部外者ではあるけれども)ご提言申し上げた。(たぶんそこにこそ、個人のパッションは存在し得るだろう)。

コメント(1)

師匠、仙台では雨の中の打合せありがとうございました。
大変打合せが出来て、今後の活動が見え、すっきりいたしました。
懇親会ご一緒できずに失礼いたしました。