『人間が幸福になる経済とは何か』。(ジョセフ・E・スティグリッツ)―政治経済学的な立ち居地でブログを書くことが多くなっていること。

人間が幸福になる経済とは何か

人間が幸福になる経済とは何か―狂騒の90年代が教えるもの

ジョセフ・E・スティグリッツ(著)
鈴木主税(訳)
徳間書房
2003年11月30日
1800円+税

政治経済学へ戻る?

午前6時起床。浅草は雨。このところ、(どちらかといえば)政治経済学的な立ち居地でブログを書くことが多い。それは最初にウェブログ(店主戯言)を書き始めた頃に戻った、若しくは原点回帰した、といえば、そういえないこともない。

しかし、その「書き始めの頃」の私と、今はの私は違う(多かれ少なかれキアスム的に変化している)わけで、その違いは、(中途半端だけれども)哲学・現代思想系をかじるようになった影響だろう、と(自分では)思う。 (なぜそんな回り道と思えるようなことをしていたのかは、文末に書く)。

私は独立してから、独学で経済学の勉強をしなおしてきたのだが、その教科書的存在だったのが、 ジョセフ・E・スティグリッツスティグリッツ入門経済学 <第3版>』(今は第3版になっているのね)だった。

スティグリッツの法則

スティグリッツには、『官僚は何を最大化するのだろうか。一つの答えは、「官僚は自分の属する省庁のサイズを最大化しようと努める」である』という、有名な「スティグリッツの法則」があって、CALS/ECのあまりの硬直した官製さ加減に違和感を感じていた私を魅了していたわけだ。

スティグリッツという経済学者がいますが、その人が公共経済学という教科書の中で次のようなことを書いています。皆さんは経済学でお馴染みがあると思いますが、よく経済学のテキストをみますと、家計は効用を最大化するとか、企業は利潤を最大化するというような言い方をします。そしてその本の中でスティグリッツは、官僚は何を最大化しているかと問うのです。その答えは「官僚は自ら所属する組織の予算と権限を最大化する」ということ。だから温暖化問題というのが生じてくると、それに乗じて自らの権限と予算を増やそうとする。今仮に一つの法則といいますか、セオレム(theorem:定理)だとしますと、このコロラリー(corollary:そこからは当然の結果として)として次のようなことが言えます。「官僚は適度な非効率を温存する。」なぜならあまり効率よくやって、今まで30人でやっていた仕事を3人にしたら予算はそれだけ減ります。今度は30人でやっていた仕事を100人でやるという非効率化したとします。そうしたら何が起こるかといいますと、そんなお金のかかるサービスは行政サービスにふさわしくないということで、予算は一挙に0になります。だから適度な非効率を温存するということが、官僚のビヘイヴィア(behavior:行動、性質)になるわけです。(佐和隆光:「ポスト京都会議の地球温暖化対策」)

人間が幸福になる経済

閑話休題。哲学・現代思想系ばかりを読んでいたにしろ、政治経済学関係の本は何冊かは購入はしてもいた。ただ、ほとんどは手付かずで未読となっていた。『人間が幸福になる経済とは何か―狂騒の90年代が教えるもの」もそんな一冊である。

スティグリッツの主張は、ネオリベ(新自由主義)批判、といってよいだろう。それはある意味当然で、スティグリッツは市場の効用も理解しているが、同時に市場が失敗することも理解しているケインジアン的な立ち居地にいるからだ――なにしろ彼は民主党のクリントン政権で経済諮問委員長だったわけだからね。

人間が幸福になる経済とは何か』に書かれている彼の主張は、至極真っ当なものだと(私は)思う。

アメリカは大きい政府が悪いという神話を完全に信じたことはない。大半のアメリカ人は、規制のみならず教育や社会保障やメディケアなど不可欠なサービスの提供においても、政府の果たすべき役割があると考え続けている。アメリカは国外では国家の役割を最小限に抑えた資本主義を説くが、それはアメリカ自身が拒絶している資本主義だ。アメリカは国内で大いに役立っている制度――物価の安定だけでなく雇用と経済成長の促進も任務とする連邦準備制度など――を外国に奨励するのではなく、市場原理主義にもとづく資本主義に向かわせようとした。国内ではメディアの集中を懸念しながら、国外ではそうした懸念を考慮せずにメディアの民営化を迫った。(p339)

市場は一定の目的を達成するための手段である。最も顕著な目的は、より高い生活水準を実現することだ。市場そのものが目的なのではない。もしそうだとしても、この数十年間に保守派が強く主張してきた政策――民営化や自由化など――の多くは、それ自体を目的と見なすべきではなく、あくまで手段と見なすべきだ。(p355)

私に出来ること

ノーベル経済学賞(2001年)も受賞したスティグリッツのこの本が世に出て3年以上が過ぎている。しかし彼の(私には真っ当な、真実の言葉としか思えない)主張でさえ、現在の政治・経済の実践に反映されているとはとても思えない。

むしろ益々ネオリベ化は進展し、日本では、民営化や自由化など――それ自体を目的と見なすべきででないものが、目的であるかのように大手をふって闊歩している。

それはスティグリッツのいうように、目的と目標が倒錯しているからだろう。つまり目的無きところには、理念・哲学がない――ことで if(もしかして……)が機能しない――ことで反省が機能していない。

ということは、われわれが如何に目的と理念(哲学)をもって情報発信に務めたところで――それはつまりスティグリッツの仕事にもあてはまるのであるが、情報の受け手に哲学がなければ、事態が変わることはない、のかもしれない。

では、われわれが目的と理念(哲学)をもって情報発信することは無意味なのだろうか。

そこで待ち受けているものを思うと……結局、動物化か、とまた思ってしまうだが、そしてそれは、思想的には楽な世界だろうな、とも思うのだが、まあ私はそれを止めることはないだろうな、と思う――それは私が私であるために。

私に出来ることは、そんなことしかないし、自分に出来ることをやるしかないのである。