人間の条件
動物的 | レイバー(労働) | → | 生物的な欲求 |
↓ | ワーク(制作・仕事) | → | 職人的創造から芸術的な創造まで |
人間的 | アクション(活動) | → | コミュニケーション |
コミュニケーション
ハンナ・アーレントによれば、真に人間的であるのはアクションであり、コミュニケーション――言語的コミュニケーションということになる。
ただコミュニケーションには、レイバーやワークに従属している場合もあり、それは真のアクションではない。真に人間的なものは、レイバーやワークから切り離されて、コミュニケーションとしてのコミュニケーションとしてのアクションである、とされている。
しかし、今私たちが直面している現実は、これとは違う事態であろう。
つまり、アーレントのいう「真に人間的」なものであるアクションを、どこまでも純化してみたら、つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションを、レイバーやワークとの関係から解放してしまったら、それは人間的じゃなく「動物的」なものになってしまった、ということだ。
今や、コミュニケーションは、ただの機械との相互交換、若しくは動物的な反応に近いものへと帰っていくように思える。
それは、(私の)「工作の時間」では、「円環モデル」(井戸端会議)的コミュニケーション、ステロタイプ再生産であって、今やウェブ上のコミュニケーションでは一般的なものでしかない。
私自身、mixiを中心に、バーチャルなコミュニケーションを楽しんでいる。
けれども、そこでのコミュニケーションは、ほとんどが機械的なもの、若しくは動物的なものである、といってもよいだろう。
つまり、コメントは、相手を傷つけないように配慮し、それは機械的な反応に近い。
しかしそうすることで、私も相手も傷つかない。
そして私は円環の中に居ることができる。
そしてそれは別に悪いことではないのだが、しかしなにか動物的な「群れ」を想起してしまう。
動物化
このような況を、東浩紀は「動物化」と呼んでいるのだろうが、それが今という時代の空気(雰囲気)であることで、それはまた再生産され続けている。
つまり、アーレントのいう、人間らしいコミュニケーションの行き着いたころは、動物的な、機械的なコミュニケーションに覆われた、非人間的な世界でしかないのだろう。
私は、これが良いことなのか、悪いことなのかは、わからない。
ただ政治的には、動物的であるがゆえに、ポピュリズム的であり、経済面では古典主義的な経済発展至上主義がはびこるこの風潮は好きではない。
〈勝ち組/負け組〉などという、ナイーブな進化論を下敷きにした、人間を動物に比喩した思考が、まかり通ることで、私たちは固体化を阻まれているように思う。
動物化と公共事業
たとえば、公共事業への経済効率的重視的な批判も、機械的であり、動物的な反応でしかないだろう。
それが、民主主義の一人一票、つまり多数決のシステムと融合しているので、政治はますますポピュリズム化する――民主主義のシステムは、そんなに悪いものではないと思うが。
そこでは、政治や行政もまた動物的であり機械的でしかない。
地域社会の疲弊も、また然りである――大都市圏では、地方が疲弊していることなど知らなくても、(いまのところ)何の問題もない。
つまり、公共事業を、動物的、機械的――脊髄反射的にしか語れない方々は、公共事業がなにものかを知らない。
知らないから動物的に反応できる。
しかし、その反射的批判に、批判対象を知る必要(前提は)必要ない。
それが動物化の動物化たる所以である。反射こそ、その真髄なのであり、公共事業は、ここで、万事休すなのである
そして公共事業に依存してきいた地方もまた万事休すなのである。(金魚論)。
機能を語る
一方、「公共事業という産業」は、ただ閉じた円環システムのようなアクションを繰り返してきた――今でもそうだが……。
しかしそれは、情報を発信しているどころか、益々密室化していることでしかない。
そして、古典主義的経済政策(弱肉強食)や、〈勝ち組/負け組〉等という、地域とともに生きる――少なくとも地方の「公共事業という産業」は、地域のためにある――とは、逆方向の環境を、ただ受け入れている。――このことについて、行政は全く対応策がないと理解した方が良いだろう――。
ではどうすればよいのか。 キアスム的に「ひねる」しかないではないか。
私は、「公共事業という産業」がまずすべきことは、自らの機能について自ら語ることだと考えている。つまり(自らの機能において)
観察すること
言語化すること
バルネラブルに表現することであり、その結果として
つながること
なのである。それは、コミュニケーションを、自らのワークに奉仕させること――つまりキアスム的にひねりをもった「Mobiusの1/2切断×2」の立場から、情報を発信することでしかないだろう。
コミュニケーションは自己言及するシステムのものである。
コミュニケーション=〈情報/伝達〉の差異の理解
(二クラス・ルーマン)
自己言及とは、自らの機能について語ることである。そのために、われわれは、ITという情報の機器を使い、Web2.0 meme さえ、拒絶的に受容をしようとする。
とりあえずは大きな流れの中で流れて、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つこと。
(川俣正)
つまり、それが(動物化を回避しようとする)IT化、ということなのだと(私は)考えている。