再び書く。

落ちてゆくときの怖さは、どうだろう。
戦さに敗れ、命からがら落ちてゆくときの怖さはそれを味わったものにしかわからない。惨めさよりも、悔しさよりも、四方八方から追いつめられているという恐怖心だけが全身をとりつつみ、胸は破裂しそうなほどに高鳴りつづけている。(引用:秋月達郎:『村重好み――耀變天目記――』)[悪党の生き方―亀田家の生き方、もしくは後ろ盾。]


金平会長と亀田興毅の記者会見を(TVで)見ていた。(国会中継よりこっちの方が視聴率は高いだろう)。

亀田興毅は立派だなと思った。

私の処世術は「謝っちまえ」なのだが、立派な謝り方だと思う。

私は少しだけ亀田興毅のファンとなった。(それは金平会長の目論見通りなのかもしれない。新しい亀田興毅像をつくれるかもしれない――キアスム)。

亀田父は「謝ったら負けだ」という(私とは反対の)処世術をお持ちのようだが、マスコミはそういう人間が嫌いなのだ。(私は別に亀田父の考え方を批判する気はない。ただ損な生き方だな、と思う)。

衆人の前に、謝る亀田父を晒したい。

それはテレビという村社会に宿る人間のいやらしさだ。(灰色がない――徹底的に貶めたい)。

しかし「落ちてゆくときの怖さは、どうだろう」なのである。

「落ちてゆくときの怖さ」を味わった人間を攻める言葉など無いのである。

その後の亀田家の生き方こそが答えでいいではないか、と(私は)思う。

正直、こんな問題で公共の電波を使うのは、スパムメールと同じぐらいに、もうやめにして欲しいなと思うのである。(と言う私も興味津々で見ていたのであるが……)w