「懐かしの昭和」を食べ歩く カラー版 (PHP新書 510) (PHP新書 510) (新書)

「懐かしの昭和」を食べ歩く カラー版 (PHP新書 510) (PHP新書 510)

森まゆみ(著)
2008年3月28日
PHP研究所
950円+税


午前6時30分起床。浅草は曇り。バッキー井上さん曰く

お好み焼き屋に限らず、食いもん屋や飲み屋を客観的に評価することほどあほらしいものはないが、特にお好み焼き屋はその人間が小さい頃から食べてきたお好み焼き屋のお好み焼きこそがスペシャルであり、よその街のお好み焼き屋はいくらうまくてもその店を好きになるには相当時間がかかる。

(中略)

若い頃や子供の頃に暮らしていた街もずいぶんと変わってきたけれど、今も変わらない何かがあってくれることで、どこを向いているかわからない自分のさびしさを少しだけ埋めてくれる。それが僕らの場合たまたまお好み焼き屋だったということだと思う。

(中略) 

犯罪発生率を下げるためには、下町のお好み焼き屋に助成金を出すことだ。その16 スコセッシやデ・ニーロがいつも描きたがっている下町のお好み焼き屋。「山本マンボ」 from 140B劇場-京都 店特撰 

なのだが、《その人間が小さい頃から食べてきたお好み焼き屋のお好み焼きこそがスペシャル》であるということが、つまりは「街的」の基底なのであり、寿司と洋食と蕎麦は、近所のがいちばんうまい、ということであり、それがパトリを擁護する心象なのだ。

《犯罪発生率を下げるためには、下町のお好み焼き屋に助成金を出すことだ》は、「路地のロジック」でもある。

浅草は犯罪は多いけれども、ヘンな犯罪はない。子殺しもなければ、駅で突然切りかかる奴もいない。路地のある街は、街が安定するのである。『大阪おいしいROJI本』―あたしも少しだけ書いている。

なぜあたしがこうして「街的」にこだわっているのか、といえば、今回紹介する『「懐かしの昭和」を食べ歩く 』のあとがきで、森まゆみさんが、

前編ではあとがきの副題を「チエーン店ハンターイ!」とした。大資本がアルバイトを使って展開する味の均質化と低下に小さな意義を申し立てたかった。小さくても長年鍛えた腕っこきの主人がいて、マニュアルどおりでない、あたかく家族的なもてなしをしてくれる店へ行きたい、と思って古くからある店を紹介した。(p266)

(ちなみに今回の副題は「ミシュラン何するものぞ」であるのだが)と書くその心象は、絶対に公共事業(それも地方の)にも通じなくてはならない、と思っているからだ。(しかし、それは《あたかく家族的なもてなし》でなくとも、べつに古いものである必要もない)。

先に、(往復書簡で)ル・コルビュジェを批判したように、「輝く都市」のローカル版のような公共事業が、まるで《大資本がアルバイトを使って展開する味の均質化と低下》を招いている現状に、あたしはずっと文句を言い続けてきた。(これは「発注者=行政」に言っているのだ)「パトリはなにものよりも優先する」と。

そのパトリを破壊する「輝く都市」的感覚は、もはやパラダイム的に、そして時代的にズレている。ズレているものを持ち出しながら、いくら「公共事業は大事だ」といったところで、目利きの人間にそれは通用しないのである。

バッキーさんが、《犯罪発生率を下げるためには、下町のお好み焼き屋に助成金を出すことだ》という心象は、おらが村の土建屋には働かないのである。公共の仕事というのは、食と同じように大事なものなのに、「犯罪発生率を下げるためには、地方の中小建設業に助成金を出すことだ」とは、誰も言ってくれないのである。

しかし、[全否定なら、「公共事業が日本の大人をだめにした」と書く」のも確かなのだが、地場の中小建設業が、チェーン店並の公共事業に依存するだけなら、それは郊外にできた大手スーパーに駆逐される中心市街地と同じ運命でしかないのである。(これは建設業界に言ってきたことだ)。

閑話休題。この本はグルメ本ではない。江弘毅とはまた違ったテイストの『「街的」ということ』なのである。この本に書かれている浅草の店、ぱいち、どぜう飯田屋、染太郎、土手の伊勢屋は、あたしにも馴染みの店だが、それを「ミシュラン東京」のようにランク付けをするような〈下品〉さはない。

そのテクストに、あたしのような〈遅れて来た者〉は、「あぁ、そうだったのか」と、ただ感心されせらるだけである。もちろん、浅草以外の、あたしの知らない店にいたっては、「おいしい」も「うまい」もないテクストなのに、読者をそこに向かわせるには十分な説得力を持っている。

そして、江やあたしのように、「街的」を書く「もだえくるしみ」を、微塵も見せないのは、森まゆみさんの、街中暮らしの年輪の成せる技だろう、といったら、「ババァ扱いしないでよ!」と叱られるか。(あたしより少しだけ年上なだけだ)。そしてあとがきはこう続く。

本書で紹介した店は一つも『ミシュランガイド東京』には載っておりません。昼間列ができる店もたまにあるが、時間をずらせば大丈夫。願わくばこの本が『ミシュランガイド東京』ほどは売れず、歴史と食文化を愛する人々につつましく活用されますことを。(p268)

そんな遠慮なさらずに、なのだが、これに対しては、江弘毅の『「街的」ということ』につかったフレーズをそのまま使わせていただくことにしよう。

つまり「街的」とは、己の立ち位置であり、強烈なバイナリーコード(二項操作法)を持った生き方なのである。〈街的/非街的〉、〈日常/非日常〉、〈浅草的/非浅草的〉、〈パトリ/非パトリ〉。

この感覚(街的)がなければ(理解できなければ)、地域再生なんていうのは砂上の楼閣にしか過ぎない、と私は思っているわけで――つまりパトリじゃないものをパトリとして感じることはできない――、私としてはたくさんの方に読んでもらいたい本だと思っている。