午後6時浅草に戻る。戻って直ぐに《その20 王さんが通った街の中華料理店。「北京亭」 from 140B劇場-京都 店特撰》をアップする。ここでのバッキー井上さんはとてもやさしい。この人が「おいしい」と書いたテクストを初めて読んだ(ような気がする)。
さて上の写真は、この前京都へ行ったときに、錦・高倉屋(バッキー井上さんのお店)に寄って買ってきた漬け物の写真だ。水茄子ときゅうりの古漬けである。当然に糠漬け(どぼ漬け)なので匂う。京都から運んでくる道すがら、がらがらだった新幹線はともかくも、帰宅時間帯の山手線では若い娘さんに露骨に嫌な顔をされた逸品である。
水茄子は食べてしまってもうないけれど、胡瓜の古漬けは少しずつ食べているのでまだある。なぜ少しずつ食べているのかといえば、それはすっぱいからで、それも半端じゃなくすっぱい。二切れあるとご飯が一善食えるし、一切れでぬる燗一合はいける。
そのうまさは(例によって)記憶の深層なのであって「かたりえぬもの」でしかないのだけれど、それはあたしの言葉だと無限小を纏うキアスムで、つまりは贈与と純粋贈与の重なりに生まれた純生産である。
それが1本100円と値付けされて商品になっていることは、大切なことだけれども大切でもなく、あたしはこの時間をかけて変化するものをつくりだすことを商いとしているバッキー井上さんに激しく嫉妬するのである。
しかし江弘毅の書いた《「みんな」のためのパブリックなんて、あるかいな。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡》を読んだら、あたしがこれ以上何か書く必要もなくなってしまうのだ。
ぬか漬けは、京都ではどぼ漬けである。ぬか漬けは説明でしかないが、お香こは鼻に文字があり、どぼ漬けは目(耳)に文字がある。
生活者としての五感が生み出した言葉がイディオムである。
あたしたちは、ある街に住むのではなく、あるイディオムに住むのだ。あたしの街とは、イディオムのことで、それ以外の何ものでもない。(@エミール・シオランのことばのもじり)。イディオムには、暦も地図も圧縮されている。(江弘毅の三角飛び―ぬか漬けを京都ではどぼ漬けという。 from モモログ)
錦・高倉屋 |