鈴芳の提灯午前7時起床。浅草は晴れ。寒い。昨晩、往復書簡に、『自営業者が「街的」であるには、昼間から飲める居酒屋のある街でなくてはならない。』をアップした。

このタイトルは、浅草で生きている自営業者としてのあたしが感じる、微妙な「街的」の質感(クオリアか?)のようなもので、別に理論的根拠があるわけではない。

もちろん自営業者とは、正確には「広義の自営業者」であるけれど、これだってあたしの造語でしかない。その意味するところは、往復書簡にも書いた。


広義の自営業者」はあたしの造語ですが、その意味は、「昼間から飲める居酒屋のある街の人」 であったりするべらぼうさで、これじゃわけがわからない。なのでちょっと高尚に、と背伸びしたりするのですが、すれば、エスピン・アンデルセンのいう、自由主義的人間、家族主義的人間、社会民主主義的人間という分類があったりします。「街的」な人間は、アンデルセンのいう「家族主義的人間」に近いわけです。

しかしここで強調するのはその意味ではなく、この往復書簡を書くために、二日前から準備をしていたということだ。布石のことである。

つまり、上の引用でもわかるように、2日前のアンデルセン※2 のエントリは、今回の往復書簡を書くために書いたのであり、昨日書いた自営・中小=雇用対策のエントリ※3も、である。ついでにいえば、自営・中小=雇用対策のエントリを書くために、【資料】『日本型福祉社会』(自民党:1979)も先に投稿している。これらは全てつながっていて、それも今回の往復書簡を書くためにである。立派な偏執狂ぶりである。、

これらは、いってみれば、ひとつにまとまるようだが、だけれどもまとめたら長文になってしまってブログには向かないような、それもあんまり読んでもらえそうもない(どちらかといえば固い)話題を、分割して、それぞれ独立したエントリにして、読みやすくしたようなもので、あげくの果てに140Bのサイトで、まとめのようなものを書いてしまったのである。

ただこれはブログ的には正解なのだと思う(だからやったのだが)。なによりもエントリは増えるわけだし、それぞれが独立したテーマなので、違ったキーワードで検索され、やがて読まれる可能性、つまりは偶有性は高くなる※4(たぶん)。これでリンク先の記事も読んでもらえれば、あたしは、小さな谷のチーズメーカーのようにうれしいのだけれども※5 、そればかりは、どうなるかはわからない(だから偶有性なんだろうけれども)。

※注記

  1. なんで画像が鈴芳の提灯なのかというのは、『煮込み通りの鈴芳で昼間から飲む。(浅草2丁目)』 を読んでもらえればわかる(たぶん)。
  2. 「詩人のねがいは、どこかの谷間でできるチーズのように、その土地特有のものであるが 、どこかよそで賞められること。」(@オーデン) もちろんあたしは詩人じゃないけれど、ブログなんてものはそういうものだ。