アダムスミスの構想
アダムスミスの構想
堂目卓夫:『今蘇るアダム・スミスの思想』:中央公論2009年5月号:p55


アダム・スミスのテーゼ「個々人が私利私欲を追求するに任せておけば、社会全体の福利(ウェルフェア)は最大限に高まる」が、けっして個々人の利己心の追求だけから達成できるものでないことは、アダム・スミス本人がいっていることで、利己性(自己関心:セルフ・インタレスト)がウェルフェアに貢献できるのは「共感シンパシー」があってのことなのは当然のことでしかない。※1

しかし主流派の経済学=新古典主義経済学は、「共感シンパシー」を棚上げし(というか面倒な変数なので考えないことにして)、功利主義的人間観をナイーブな前提とすることで、「数学的厳密性を高めることにエネルギーを注いだ」(堂目:p62)。だから経済学は世界的な共有言語を持つ科学(のようなもの)となった(だからあたしも少しは「経済学」を学ぶことができた)。

しかしその主流派経済学の〈理論〉をナイーブに受け入れた〈政策〉は、バラバラな個を前提としてしまうことで、様々な鬱陶しさ(人と人との間)で生活している人間の顔を持たない――そのことで、「社会全体の福利(ウェルフェア)は最大限に高まる」を達成できなかったばかりか、主流派経済学(の〈理論〉)は、〈政策〉に口出しすることも出来ないぐらいに影響力を失いつつある。それが今という時代なのだと(あたしは)思う。

あたしは主流派の経済学をずっと批判しつづけてきたし、そのオルタナティブのように普遍経済学を考えてきた。それは「贈与」の縛りのある鬱陶しい社会を前提とした経済の理解だ(主流派の経済学には「贈与」がない)。※2

人間は「功利主義である」という出発点は
主流派の経済学と同じなのである

しかし人間は「功利主義である」という出発点は主流派の経済学と同じなのである。人間は多かれ少なかれ「功利主義である」という人間観であたしは生きている。だからこそ「贈与」の縛りが欲しいと考えている。

それはただの「贈与」であるだけで宜しく、スミスのように、個々人の道徳性が必要だなんていわないし、ケインズのように、優秀な官僚なんてものにも期待してはいない。※3 あたしは、そんなものに期待するほどナイーブな世界で生活しているわけでもないし、ユートピア論的にそれを語るようにもできてやしない。

世の中、いい人/悪い人の二項区分なんて意味はないと思っている。あたしにとってはいい人だけれども、あなたにとっては悪い人であったり、あたしにとっては悪い人だけれども、あなたにとってはいい人だったり、まーそんなものだろうと。

なのであたしは「街的」を援用するのであって、「街的」は個々人が私利私欲を追求しながらも、社会全体の福利(ウェルフェア)を最大限に高めるための(あたしらのこころの外にある)装置(贈与共同体)であると考えている。

主流派経済学の最大の罪は、功利主義的人間観をナイーブに前提にしてしまった〈理論〉を構築したことなどではなく、個々人の功利性を解放することで「社会全体の福利(ウェルフェア)は最大限に高まる」と考えた〈政策〉を許してしまったこと、もしくは机上の〈理論〉を〈政策〉に採用されて慢心して(喜んで)しまったこと。仮定でしかない〈理論〉を〈政策〉で、つまり実社会で実験させてしまい、地方のような「贈与共同体」でしかないものを破壊してしまったことだ。

「街的」がいうのも、ほっときゃ「個々人が私利私欲を追求する」に決まっているということで、けれど利己心だけなら共倒れが待っているというのは進化論からのアナロジーでしかないが、「街的」は経験的にそれを知っているのであて、口やかましく、鬱陶しく、個々人の利己心を牽制するのである。利他的にやりなさいよと。他人に迷惑掛けちゃいけませんよと。そうして生きることで、あなたの利己心もちっとは満足できるでしょうというのである。

その牽制を、国家というか政策というか法律のようなものに任せないのは、そういうものの関与があたしの利己心は嫌いだからで「街的」が我慢の限界なのだ。そして「街的」の方が法律なんかよりもずっと合理的にできていて、利他的に生きながらも私利私欲を追求する邪魔にならないからである。

もちろんそんなことを堂目さんがいっているはずもなく、『今蘇るアダム・スミスの思想』 (中央公論2009年5月号)に書かれていることは、あたしにとってはフツーのアダム・スミス噺しかないけれど、あたしのテクストを読んで、なにをいっているのかわからない人は読んだ方がいいに決まっているのである。うそみたに読み易いし。

※注記

  1. スミスの人間学の中核となる概念は「同感」である。同感とは他人の感情を自分のなかに写し取り、それと同じ感情を引き起こそうとする人間の情動的な能力のことである。
    とすれば「『世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」』の岡本先生の考察は、日本的モラリズムは「個々人が私利私欲を追求するに任せておけば、社会全体の福利(ウェルフェア)は最大限に高まる」には好都合に働くということだろうが、それが「街的」ではなくテレビ村なら、そうはならないことは先に書いた。
    ちょっとポイントがずれるけれども、どうしたら、地方の公共事業は、経済合理性で考えるものではなくなるのか のコメント欄も参照
  2.  「あかんではないか」―「街的」な言説というのは鬱陶しいに決まっているのです。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡 参照
  3. この部分あっさりと書いたけれども、ほんとは面倒なのである。面倒だから新古典派は端折っちゃったのだ(たぶん)。あたしの端折った考察は特別な才能をもたない普通の人を支えてくれるものは貨幣以外にありえない。 参照