牛鍋牛鍋


牛鍋

午前4時20分起床。浅草はくもり。盛岡での夜、この日は暑気払いとあいなった。場所は「網玄」。出てきたものは「牛鍋」である。この日は土用の丑の日であり、おやじさんが気を利かして「牛鍋」にしたのかと思えば、「そんなことはありまへん。」とズバリ云う。そんなことは無いだろうが、しかし、「そんなことなら鰻のしゃぶしゃぶでもつくっとけばよかった。」と云うもんだから、本気にしてしまう。

この牛鍋を見るといつの決まった詩を思い出す。高村光太郎:「米久の晩餐」だ。「ぎつしり並べた鍋台の前を、この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして、正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓楽をつくす群衆、まるで魂の銭湯のやうに、自分の心を平気でまる裸にする群衆、かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して、のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせてせめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆……」。

いや、この日の晩餐は正にその通りなのである。一つ違うとすれば、そこにいる人達は「群衆」などではなく、一人ひとりが名前で呼び合える方々だということなのだ。

牛鍋

玉子と牛肉

網玄
岩手県盛岡市菜園1-2-17