浅草寺浅草寺


日常

午前5時30分起床。浅草はくもり。浅草寺は浅草に住んでいると当たり前にようにある存在だ。朝、あたしは浅草寺の裏から入る道を常として使っているのだが、はたしてこれが道なのか否かはあたしは知らない。ただ、浅草寺の東側を、道のようなものが続いている、と云った方がいいのかもしれない。

そして、毎朝掃除をしている寺の方々の姿を見ている。それは、もうすぐ浅草寺の構内を出ようとする時の朝のハイライト、すなわち水撒きへと昇華するのだが、この水撒きもほとんど職人技で、なにしろ通行する人々には少しも水を掛けない。この毎日の行動で浅草寺がいつも綺麗に保たれることは云うまでもないし、それは毎日続く朝の日常である。

ケと異常

そしてここを通る、浅草警察署に通う人々をはじめとする、通勤の人達と顔を合わせる。この通勤の方々もいつもの光景であり日常と云っても良いだろう。問題は、コロナ以前なら、多くのインバウンドの方々がお参りに来ているのを見ていたことだ。それは(あたしの中では)日常であり、つまり「ケ」の風景であった。

その人達が減り、外国人を見ない静かな日々が続いている。それは異常な風景だった。浅草は浅草寺のフラクタル構造で出来ている。だからどこへ行こうが静かな日だった。この静かな異常さを非日常(「ハレ」)と呼ぶのだろうか(と思った)。しかし、緊急事態宣言が解除された今、ちらほら外国人を見るようになってきた。

新しい日常

どこから来たんだろう、と思うのだが、浅草寺には人が戻りつつある(兆候がある)。「with コロナ」、浅草とは浅草寺とそこに集う人々のことだ、と思う。それが浅草に住んでいると当たり前にようにある存在なのがだ、それをもう一度呼び戻せるように、「新しい日常」とやらを生きて行こうと思うのだ。

浅草寺

浅草寺

浅草寺
東京都台東区浅草二丁目3-1