自らが動きださなければ問題は永遠に解決しない

市場をミーム論から見ることで、「公共工事ダメダメミーム」は、中小建設業にとってさらに厳しいものとなり、そのスピードは益々加速していることが理解できたかと思います。ここで恐れるのは、一旦均衡してしまった状況を元に戻すことは、非常な困難を伴う(たぶん不可能でしょう)ことです。


このような状況に、(中小建設業界が)相も変わらず貝のように口を閉ざしたままであるのなら、状況はさらに悪化するだけでしょうし、「発注者」は、公共の領域に「マーケット・ソリューション」を持ち込むことが精一杯になるだけです。これはスパイラル的に中小建設業の環境を悪化させるだけでしょう。

私たちは、他力本願で、公共工事を「よし」とする「救世主」の出現を望むしかないのでしょうか。しかし「公共工事という問題」は既に、ひとりのヒーローの出現で解決できるものではありません。この問題に他力本願は期待できません。

今、「公共工事という産業」が行うべきは、自らが行う〈公共工事に対する信頼の再構築〉でしかありませんが、それにはまず、「公共工事という産業」を構成している全ての構成員(発注者、政治、中小建設業)が、〈自らが変化することでしか問題は解決しない〉ことに気づかなくてはなりません。

その気付きがなければ、動き出す力も沸いてこないでしょうし、環境は永遠に好転することもないでしょう。「公共工事という産業」が自ら環境を救えるとすれば、自ら動き出し、自ら変化するしかありません。その行動の相互作用に、環境は好転への可能性を残すのです。それは、ミームという眼鏡を通すことで知り得た可能性です。

公共工事ダメダメミーム」は、「公共工事という産業」の「技術のミーム」との相互作用で形成されたものです。私たちは、自ら行動が「公共工事ダメダメミーム」の成長に加担してきたことを忘れてはなりません。

公共建設市場は、「金魚論」がいうように、環境依存型の市場です。それは今後もたいしてかわらないでしょう。であれば(依存しなくてはならない環境なら)、その環境にはたらきかけることを忘れてはならないのです。その第一歩が自らの精神文化の変化です。

つまりこの「変化」は、ナイーブな「消費のミーム」への迎合を意味してはいません。本書のいう「IT化」(を通した変化)とは、インターネット社会、つまり「今という時代」に、中小建設業、そして「公共工事という産業」が、市民社会との関係の中で、自らの存在位置の編集作業ができる「精神文化」を自らのものにすることです。

そのことで「コミュニティ・ソリューション」という問題解決方法は機能しはじめますし、市民社会との「ソーシャル・キャピタル」の蓄積と関係の編集を目指すことも可能となるでしょう。

「IT化」とは、その「変革」の精神的な基盤として、私が「コミュニティ・ソリューション」の中枢にあると考える「インターネットの精神文化」に、自らを開放(コミット)することでしかありません。

つまり、本書が行ってきた議論を寅さん風にいうなら、「信頼をなくしちゃおしまいよ!」なのですが、「インターネットの精神文化」には「安心のシステム」にはない「信頼」の秘密があります。

「公共工事という産業」は、長い間「信頼」意識せず「安心」で維持できた稀有な産業であることで――それは、偶然それが許される時代環境(開発主義)があったからですが――、信頼の構築が、とびっきりへたくそなのです。

本書の意図とは、「公共工事という産業」の信頼を、市民社会とどうしたら構築できるのかを、「IT化」の文脈、つまりは「コミュニティ・ソリューション」の文脈で考えてみましょう、というものであって、それ以上でも以下でもありません。

「公共工事という産業」の「IT化」を語る時、私は「コミュニティ・ソリューション」の可能性という文脈でのみその可能性を信じることができます。〈「公共工事という問題」の前では、技術論的なIT化など、なんの役にも立ちはしない〉のです。

本書が、「中小建設業」や「公共建設市場」の仕組みを『「わからない」という方法』で考えてきたのは、公共工事の良し悪しを判断するためではありません。ただ中小建設業が「今という時代」に、そして「これからの時代」に、生き延びる術(すべ)を見つけようとしただけのことです。

そして問題は、「安心のシステム」の硬直性にありました。それが「公共工事という産業」の特徴であるのは、戦後の開発主義の裏側で進められた配分重視の経済政策への、「公共事業という産業」からのミーム適応の結果なのです。

それは公共工事における請負契約の内容が、一方的に発注者に有利になっている片務性――請負制度は請負「うけまけ」と呼ばれている――や、参入に際して不確実性が存在する市場環境へのミーム適応の結果だと(ミーム進化的に)考えればよいのです。

自らが環境にはたらきかけなければ私は私を救えない

つまり、環境が「安心のシステム」の必要性を生み出したのであって、であれば、環境が変化すれば、我々も変化すればよいのだけのことなのです。

自らが変化することで環境にはたらきかける。そのことでしか私は私を救えないのがミーム進化です。その働きかける環境は「インターネット社会」を観察することで見えてきたことなのです。

最初に指摘したように、ミームは、ここ掘れワンワンの「ポチ」にすぎません。問題発見のツールにはなりますが問題解決はできません。本書がなにがしかの問題点を指摘しているとすれば、それはミームが「ここ掘れワンワン」と教えてくれたものです。しかし気づいただけでは何も変わりません。つまり気づいたのなら、今度は動き出すしかありません。