福岡県大木町発注の中学校改修工事の指名競争入札をめぐり、特定の業者を入札に参加させたとして、県警は14日、同町議会議長の内田清喜(73)=同町=、同町教委教育長の戸塚武(62)=同県柳川市=の両容疑者を競売入札妨害(偽計入札)の疑いで逮捕した。県警は業者側からの見返りがなかったどうかについても調べる。/調べでは、両容疑者は今年5月下旬ごろ、同町が6月に発注した町立大木中学校の大規模改修工事(予定価格2億6667万円)をめぐり、土木建築会社、大和建設(本社・同県久留米市)の依頼を受けて、町指名競争入札参加者選定委員会で同社など8社を入札参加業者とするよう決定させた疑い。/入札は6月14日に8社が参加して行われ、大和建設が2億6000万円で落札(落札率97.5%)。同社など2社の幹部計3人が11日に競売入札妨害(談合)の疑いで福岡県警に逮捕されていた。[asahi.com:町議長と教育長、入札妨害の疑いで逮捕 福岡・大木町 - 社会]


午前5時50分起床。浅草はくもり。

談合はコミュニティ・ソリューションだ、と『桃論』で書いた。

そもそも談合は、極めて不確実性の高い要件を前提として成立しています。それは、談合が成立するには、談合参加者が決定事項を必ず守る必要がある、ということです。つまり、談合の成立自体が全く信頼のおけない構成員同士の「信頼」を前提としている、という矛盾を抱えていることで、談合は最初から社会的不安を内在しているのです。しかし、そこに何等かの信頼関係が形成され、構成員の合意によって仕事の均等な配分をおこなうという談合のシステムが正常に機能しているとすれば、ここには「ソーシャル・キャピタル」が存在していると理解してもいいのだろうと考えるのです。 [桃論―中小建設業IT化サバイバル論|Lesson5  コミュニティ・ソリューション(その3)]

しかしここに、針千本マシーン(けん制装置)――今回は町議長と教育長だわ――が介在すると、それはヒエラルキー・ソリューションになってしまう。

そのことが、今の時代には「公共事業」が嫌われる(批判の対象となる)原因をつくっている。

一方、官製談合のように、談合のシステムに政・官が加わることは、そもそも、相手に対する人格的な信頼を前提とはしていないのです。つまり、談合参加者が決定事項を必ず守る必要を談合参加者の良心に委ねるのではなく、政・官という権限と強制力に委ねていることを意味しているからです。/つまり官製談合は「安心のシステム」だということができます。この「安心のシステム」には、談合参加者が約束を守らない場合、指名から排除される等の何らかのペナルティが違反者に対して課せられる仕組みが存在するのですが、このけん制装置の存在は、相手は嘘をつくかもしれないが、嘘をつけば相手は自己利益を損なうだろうから、たぶん嘘はつかないだろうという相手の意図に対する期待を持つことを可能としていること意味しています。ここで損なう自己利益とは、経済的な損失の実ならず、村八分のようなものも含まれると考えればよいでしょう。(『桃論』)――これはまだWeb版にはアップされていない。

それは山岸俊男先生のいう〈信頼/安心〉の違いのようなもので、『桃論』は、信頼(もしくは、けん制装置無しの安心のシステム)を技術的にどう構築できるのか、を考えたものだし、この問題に関しては、脳みそがウニになるぐらい(私は)考えてきたつもりだ。

そして今思うのは、なぜ建設業には「信頼」は無いのだろうか(それどころか「安心」さえも失っている)、ということではなく、日本人は「信頼」を醸成する足場を失ってしまっている、と言うことでしかない。

普遍経済学日本人とはそもそもが贈与の人々なのである。

それは年寄りばかりではなく若い人たちもそうであることは、インターネットを観察していれば自ずと判ることだ。[贈与としてのインターネット仮説。]

しかし贈与の人々を受け入れるだけの「贈与のシステム」が、今は(Webの世界と「街的」にかろうじて残っていることを除けば)絶滅器具種なのである。

あるのは「交換」(マーケット・ソリューション)ばかりになった。

そこでの見返りは、当然に、贈与的ではなく、交換的になる。

つまり「やがて」とか「そのうち」が無くなり、見返りは「直ぐに」じゃないと気がすまない。

今の世の中、時間軸が無いのである。[「個と組織 新たな挑戦」―働くニホン 現場発。(日本経済新聞)]

そのことで、見返りにありつけなかった人々のスパイト行動は、直ぐに起こりやすい(つまり内部告発)――ことで、より強い(と勝手に思っている)ヒエラルキー・ソリューションを発動しようとするのだろう。(これもまた贈与ではなく交換とヒエラルキー・ソリューションのハイブリッドとしてだ――つまり贈収賄)。

そのことで、この手の事件はあとをたたないのだろう、と思うし、それが「見える化」されてしまうのは、[何人もその家卑の前では英雄足りえず]はますます強烈に機能しているからなのだ、と(私は)思う――つまりインターネット社会の特徴になじまないことで(環境と原理を理解しないことで)公共事業という産業は、自分で自分の首を絞めてきたに過ぎない。

このことについては、「公共事業という産業」は、根本的に考え直すべきだろう、と私はずっと主張してきた。

けれども、私も十分にくたびれてきていることは、言うまでもないし、いくら時間をかけてもそれができなかったのは、やっぱり私等思う存分利己的であるからなのだろうな、と思うのだ。

ただ、利己的が悪いと言っているのではない。

つまり利己的であるが故に、利他的な外部装置は必要なのにそれが無い、と言っているのだ。[浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。]

そして人間という生き物は悲しいかな、追い詰められるまでなにもできやしないのである。

かと言って、追い詰められたら追い詰められたで、今度は身動きが取れないのである。w

だからこんな仕事をしていると、ああ、めんどうくさい、とすべてを放り投げたくなるのである。w