小柱と水菜のかきあげそば小柱と水菜のかきあげそば


小柱と水菜のかきあげそば

午前5時10分起床。浅草はくもり。「ゆで太郎本所吾妻橋店」で「小柱と水菜のかきあげそば」はよく食べたものだ。だけど、この蕎麦は昨日「ゆで太郎」に行ったらなくなっていた。それを、かつてあったもの=《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」と呼んでみたい。

それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。 (ロラン・バルト:『明るい部屋―写真についての覚書』:p94)

あたしの大好きな「ロラン・バルト」の言葉をそのまま使えば、この写真(メニュー)は《それは=かつて=あった》ものである。これを今食べようとしても、(たぶん)残念ながらどこにも出ていないし、それがチェーン店だと云ってもなおさらにである。だから「かつてあったもの」なのだ。

でも、写真(デジタルデータ)は残っているのである。なにか不思議な感じはしないだろうか。

現物はない、しかし写真は残るのである。病気の前(あたしが難しい言葉をブログ上に並べていたころ)ならなんて書いたんだろう。

完全にデジタル・コミュニケーションは軌道にのったように思える。写真(イメージ)でコミュニケーションしようとすることが当たり前になってしまった。そして、今や動画がその地位を取ろうとしている。

ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているに過ぎない。それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p365)

ブログに使われている写真(イメージ)は、今や十分に《言葉》を語るようになった。

テクストはいらないのかもしれない。そしたら、このテクストは何をするんだい、と云われれば、写真の補足、若しくは「小柱と水菜のかきあげそば」の「かきあげのつなぎ(小麦粉)」のようなものと答えよう。糖質制限食ではいらないものなのに、なぜか未だに食べていたりするのだ(笑)。[お蕎麦deランチ]

ゆで太郎本所吾妻橋店
東京都墨田区吾妻橋3丁目7-4