『家庭教師』家庭教師』 岡村 靖幸


1990年

午前4時40分起床。浅草はくもり。新型コロナウイルスによる「緊急事態宣言」のせいで、毎日の生活パターンが変わってしまっている。身体を動かさないことが多くなり、糖尿病患者にとっては何ともな日が続くが、音楽を聴くのが多くなったのも、そんなストレスへの対応だろう。

そんなもので、「岡村 靖幸」の『家庭教師』について書いておこう、と思った。これは、一連の『』の記事を書くために聴いたものだが、この1990年のアルバムが(たぶん)彼のベストである(と思ったのだ)し、この『家庭教師』というのは、あたしのことか、と妙にシンパシーが沸いたからだ。

30年前、あたしは結婚していて子供が一人生まれていた。仕事が全てのような生活をしていたが、なんてことはなくて「一般人(ただの人)」だっのだ(今もそうであるが)。その「一般人」のあたしは、30年前に、青年であるが故に妄想が爆発したかのような(つまり、あからさまな)このアルバムが世に出たことなぞ露一つ知らないで暮らしていた。

『家庭教師』

それは正しかったのかどうかはわからない。ただ、そんなあたしが『家庭教師』を聴いて最初に感じたことは、生物学的に、生理学的に、正直に、そして誠実に自分と向き合い、そして爆発している人がいたことに驚いた自分がいたことだ(この歳だから感じられたのだろう)。

たぶんこの時期はだれでもこうなる、とは思う。ただ、「岡本 靖幸」とは違って、あたしは(というよりも大多数は)それを表現すらできないまま、その時代を忘れてしまっている。

けれどこのアルバムを聴いて、まだ結婚前の若い頃のあたしを思い出していた。そうだ、そうなんだよと。ただ岡村と違って、あたしは(その後色々あって)家庭教師をしていた子を嫁とすることになるわけだが(笑)。だからと云って岡村の作品を過少評価したりはしない。

その音楽は岡村のオリジナル(第3象限)なもので、永遠に人の心に響くものだろう。

「どうなっちゃてんだろう」で始まり、名曲「カルアミルク」、そして「(E)na」と続き、「家庭教師」で大爆発する。「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」で軽くはじけてみせたかと思うと、「祈りの季節」で悩んでみせ、その後「ビスケット Love」、「ステップアップ↑」、「パンション」と連続爆発して終わる。

その曲々の間中、彼の妄想は終わることを知らない。そんな「岡村 靖幸」が、情報として、記録として残っている。

凄いことだ。

そしてこのアルバムを特徴づけているのが子供の声のコーラスだ。そのコーラスを聴いていると、SEXの後の自分を思い出してしまう。心地良いだけではないあの無常観をだ。

30年経って漸く「そんな曲を聴いていたら馬鹿になる」とは云われない

『家庭教師』の曲は、その昔、「そんな曲を聴いていたら馬鹿になる」、と親から云われた類の曲そのものだ。そしてあたしは間もなく子育てを終えようとしている。つまり、30年も経てば「そんな曲を聴いていたら馬鹿になる」、とは云われない(たぶん)。30年も経って漸くこのアルバムが聴けた意味が分かったような気がしたのだ(たぶん気のせいだけれども)。