私ってなに?
これを露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」である。
それは〈私〉や〈ここ〉の根源的未規定性を露呈させる。それは〈私〉や〈ここ〉が入替不能である理由の、その未規定さの露呈である。
その根源的未規定性の前では、「私が私であること」を、自ら言いあてることはできない。ただわれわれは〈私〉以外の〈私〉をかたちづくっているもの(第4象限)から、〈私〉であることを指し示される。
そして、なぜ〈私〉が他ならぬ〈私〉であるのか、という問いは、「非合理性・表出的要素」(個性といってもよいだろう)の象限である第3象限の存在を強調させることになる。
第3象限
第3象限とは〈世界〉とつながる〈私〉の表出や表徴の次元なのである――つまりそこで〈私〉は〈他者〉とつながる窓をもつことができる――。
それは〈合理/非合理〉でいえば非合理であるが、そんな非合理性さえ孕んだ〈私〉を〈私〉として認識すること、つまりなんだかよくわからないものまでを含めた〈私〉を認識することは、そんな〈私〉を育んだ環境(それは第4象限である)を意識することになる。
第4象限
この第4象限がパトリである。これは主意主義的――世界は知では理解しきれないという立場。反対語は主知主義――世界観であって、(私は勿論主意主義者であるが)それがゆえにパトリを擁護しようとする。
パトリを護持する理由は何か。一口で言えば、「〈世界〉に感染するための通路」を護持するためなんです。(宮台真司:『限界の思考,』:p36)
パトリとは、〈私〉が他ならぬ〈私〉であることの理由、つまり私が〈世界〉につながるための依って立つ地面のことである。パトリを足場にすることで 「〈世界〉に感染するための通路」(つまり第3象限のことである)は開かれる。
育成環境=種・中景
それは〈私〉が生まれ育った環境(育成環境)のことでもある。それは多くの場合、郷土や地域社会や学校や職業といった共同体性=種・中景のことであり、パトリとはパトリオティズム(愛郷主義)のことではあるが――それは国を愛するということを強要してはいない――。
パトリオティズムとは入れ替え可能化に抗う思想のことです。ゆえに「たかが人為的構成物にすぎぬ国家がパトリを屠るなら、これを革命する」――これぞ右翼の本義です。(宮台真司:『限界の思考,』:p35)
と宮台真司にいわれてしまうとなにか怖いが、パトリの概念を国家まで広げてしまうのは、ヘタレ右翼(宮台の言葉)のやることだろう――「種の論理」(田邉元)でも国家は類である。つまりパトリ(種)ではない――。
GC空間との関係
パトリの位置である第4象限は、GC空間(金子郁容の概念)――つまりインターネット社会――では「どぼん」の位置にあるとされていてる。
それはある意味当然であり、第1象限にある形式合理と理論合理とは(簡単にいってしまえば)主知主義的マニュアル化なのであり、入替可能性が強調され、そこでは、「私が他ならぬ私である理由」など必要ない――フラット化する社会――。
しかし、それに人間の〈こころ〉は耐えられるものなのだろうか、と考える私は、パトリを護持し、この平らな世界で「どぼん」を超えようと試みている。それは、
その推奨はたとえば、「役割とマニュアル」が支配する、過剰流動的かつ入れ替え可能な人間関係が織り成す〈システム〉――ちなみに社会システム理論でいうシステムとは違う概念ですが――が、「善意と自発性」が支配する、相対的に流動性が低くて入れ替え不可能だと信じられる人間関係が織りなす〈生活世界〉を侵食するのを抑止せよ、というかたちをとります。(宮台真司:『限界の思考,』:p35)
ということの実践のようなものだが、それを可能にするのは、ヘタレ(依存)ではなく自立するこころでしかない。自立はパトリと〈私〉の間にある。つまり個は種のミームの中で育ち、また種は個の変化によるミームの変化を内包しているのである。
絶滅危惧種
しかしパトリは、中景の衰退の文脈においてもはや絶滅危惧種である。自立するこころがパトリと〈私〉の間にあるのであれば、パトリの衰退は、自立するこころの衰退を招くのは当然のことだろう。
(編集中)
参考文献
限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 |
新版 コミュニティ・ソリューション―ボランタリーな問題解決に向けて |