IT化を語るという立場

本書は「IT化」の本らしく、まず「IT化」についての理解からはじめることにします。しかし、IT(情報通信技術)やIT化に関する議論をするとき、特にそれが本書のように制度や組織のあり方まで意見が及ぶような場合には、これはどんな論者でもそうなのですが、それぞれがある仮説に立って自らの「IT化論」を語っていることを理解しておく必要があります。IT化が社会に与える影響をそれぞれに仮定して理論の展開をしているのです。IT化に関してはどこかに定まった見解があるわけではありません。


現代社会は、情報社会とか、IT社会とか、インターネット社会とか、ポスト工業社会とか、さまざまな呼び方をされていますが、では、現代社会をどう理解するのかという時代認識にはじつにさまざまな立場があります。当然そこには「IT革命とかいっているが、そんなものはありはしない」という立場、つまり「IT化なんかで建設業が変わるはずはない」という見解もそのひとつとして存在しています。そして「IT化は建設業を変えるものだ」とする私の立場もそのひとつでしかありません。

意外に思われるかも知れませんが、この「現代社会」という時代の認識には統一された見解など存在してはいないのです。フランク・ウェブスターはこういいます。

情報をわれわれの時代のシンボルにしたいという感覚そのものが、論争の根源となっているのだ。情報の時代は、専門化の時代、福祉の時代だと語る者がいる一方、市民に対する管理が強まると語る者もいる。高い教育を受けた人々が知識にアクセスできる時代の幕開けとする意見があり、逆につまらぬ情報や、センセーショナリズム、世間を惑わすプロパガンダなどを思い浮かべる者もいる。情報の役割を推進する国民国家の発展を想起する者もあれば、情報がより枢要となるような企業組織の変化を考えるものもある。(※フランク・ウェブスター,『「情報社会」を読む』,田畑暁生訳,青土社,2001,p9)

ウェブスターは「情報」という言葉を使っていますが、それは私のいう「IT化」と同じような意味だと理解していただいて問題はありません。しかし、この情報やIT化の性質や意味についてはほとんど合意は形成されていないのです。

私が「IT化ってなに」という問いに答えを求めようとしたとき、私がみた現実は、情報やIT化という言葉の意味や、なぜ情報やIT化が現代において重要なのか、そして情報やIT化がどのように社会的、経済的、政治的関係に影響を与えるのか、という点については驚くほど多様な意見がそれぞれ勝手に自らの正当性を主張している混沌でしかありませんでした。

世間にはさまざまな仮説が漂っているだけなのです。ただ、ここで共通しているのは「今という時代」において、情報が何かしら特別なものであるということについては、すべての論者が認めていることだけなのです(※ ウェブスター,2001,p9)。でも、それがどう特別なのかについては、各論者本当にさまざまなままでしかありません。

これがちまたに溢れる「IT化論」の実情です。はっきりいえば、どれが正しいのかは私もわかりません。これはどんなに偉い権威のある先生でもそうなのですから、本書がどのような先生の「IT化論」を援用したところで、なんとも説得性の乏しい「IT化の本」になってしまうでしょう。世の中にあふれる「IT化の本」が決して「中小建設業のIT化」の推進エンジンになれないのは、この根本部分の説得性が弱いためだと私は考えています。わけもわからず「IT化は大事だ!」といわれても、狼少年の「狼がきたよ!」くらいにしか聞こえないものです。

「中小建設業のIT化」論の多くは、このような曖昧さの上に構築された砂上の楼閣に過ぎません。そういう意味では、本書も曖昧な足場に立ったIT化論でしかありません。しかし、この曖昧さの部分を全く考慮しないと、読みやすい読み物にはなりますが単なるノウハウ書の域をでることはないでしょう。それは、もしかしたら役に立つのかも知れませんが、本当はたいして役に立たないものかも知れないということです。いくら危機感を煽ったところで、せいぜい狼少年の叫びくらいにしかなれないのです。

ですから、本書はこの部分を曖昧なままにして議論をすすめることはしません。本書にも当然に議論の足場とするIT化観や現代社会に対する見解があります。しかし、本書はその立場を議論するのが目的ではなく、中小建設業のためのIT化読本でしかありません。つまり、IT化の見解については中小建設業のIT化を考えるために必要な範疇にこれをとどめます。「中小建設業にIT化は必要なんだ」という私の主張が、なるべく多くの方々に狼少年の「狼が来た!」という叫びにならないところでこれを考え、最初に本書が足場とするIT化やIT化が社会に及ぼす影響の認識を明らかにします。本書ではそれを私とインターネットとの個人的な関係から考えていこうとします。つまり、IT化を私はこう考えている、という個人的な経験の略画的な描写から議論は始まります。

IT化認識の基盤

それでは、本書が立脚する足場、つまり「今という時代」の認識確認から始めましょう。私の「今という時代」の理解は、次のふたつのIT化に対する基本認識から形成されています。第一は現代社会の認識に関するもので、

現代社会はIT、それもインターネット社会である

というものです。

この認識は、インターネットが「今という時代」を代表するIT(情報技術)であることを意味しています。「ITといったらそれはインターネットのことだ」という認識でかまわないということです。

もうひとつは、IT化が扱う「情報」に関するもので、

IT化が扱う情報とは「ミーム」のことである

というものです。このふたつのIT化に対する考え方が、本書が立脚するIT化の基本認識を形成しています。


現代社会はIT、それもインターネット社会である

現代社会はIT、それもインターネット社会である、という認識は、インターネットが「今という時代」を代表するコミュニケーション・ツールであるということです。それはインフラの整備が進むとともに利用者数を増やし続け、ネットワーク外部性(※製品の数そのものが多いほどその製品の顧客価値が増すこと )をもって、利用者の情報通信の距離と時間のコストを低減させ続けています。

インターネットの普及で、私たちは何かしら利便を享受できていることは間違いないでしょう。遠隔地にいる友人や恋人や家族とのコミュニケーションを、電子メールを媒体に距離と時間のコストを気にすることなくできるのはインターネットの普及があってのことです。

一昔前ならば、この役目を担っていたのは「手紙」であり、今迄は(今でもですが)「電話」がその主役でした。しかし、手紙の市場は電話に食い荒らされ、一方電話は、自らの料金システムの限界(従量制)からインターネット(定額制)にそのシェアを侵食されています。さらに、このようなコミュニケーション手段のシェアというばかりでなく、インターネットは、手紙や電話に比べたらはるかに大量の情報を手軽にやりとり可能としています。今や私たちが一日に送受信する電子メールの数、訪れるウェブサイトの情報量は、もはやかつての手紙や電話が伝える情報量の比ではないはずです。

ここまでのはなしに異論を持つ方はおられないでしょう。どんなにインターネットが嫌いだという方でも、インターネットを少しでも経験されたことがあればこのようなはなしには合点がいくはずです。

本題はここからです。それは、インターネットという新しい通信技術の台頭やそれによるコミュニケーション手段の変化、そこでやりとりされる情報量の増大は、私たちの社会生活や経済システムに対してなにか質的な変化をもたらしているのだろうか、もしくは逆説的ですが、インターネットを必要とし、ここまで普及させるような社会的、経済的な変化とはなにものだろうか、という疑問です。

それは「IT化ってなに」という問いの始まりを意味します。そしてこの問いかけは、インターネットは「革命」――農業革命や産業革命に匹敵するという意味で――なのか否か、という議論に行き着きます。先に「IT化論」の実情は「わからない」ことだといいましたが、その最たるものがこのインターネットは「革命」か否かという議論なのです。

この問題の前には、「これには色々な意見がある」としか書けないのが実情でしかありません。(もちろん、興味を持った読者の皆様がこの部分を自ら調べてみることは無駄なことではないでしょう)。しかし、今後の議論を進めるためには少なくとも本書が取る立場は明らかにしておく必要があります。ここでは、私がインターネットをどう考えているのかを説明するために、少し長文になりますが、米国の経済学者ポール・クルーグマンの言葉を引用することから始めます。クルーグマンはどちらかといえば「革命否定派」に属している経済学者です。