売り手と買い手のミーム

市場を形成しているミームには、売り手が持っている「技術のミーム」と買い手が持っている「消費のミーム」のふたつを挙げることができます(※村上1994,p143)。この分類とは、市場を鳥瞰し「売り手」と「買い手」という市場を形成するふたつの立場からミームを分類したものと理解することができます。(図2)

[図2]経済的交換のミーム(市場を形成するミーム)


この分類から、モノ(商品・サービス等)が売買される(経済的交換が売り手と買い手との間で成立する)ということは、「売り手」が持っている「技術のミーム」と「消費者」のもっている「消費のミーム」が相互作用をした結果、ある特定の「技術のミーム」が「消費のミーム」を作り上げることに成功したとか、自らに「消費のミーム」を獲得したといえるような状態、もしくは「消費のミーム」が、ある特定の「技術のミーム」を選択した状態である、と理解できるはずです。これは、

 〈市場とは「技術のミーム」と「消費のミーム」の相互作用の場である〉

ことを意味しています。つまり市場もミームのプールなのであり、「技術のミーム」も「消費のミーム」もこのプールの中で相互に適応と淘汰を繰り返しているのです。

ここで私たちは、ミームから見た経済的な相互交換(つまり市場)では、自社の「技術のミーム」のシェア極大(マーケット・シェア極大)が注目されることに気づくでしょう。つまり、「売る」ということは、

 〈自社の「技術のミーム」を買っていただいている〉

ことといえるのですが、そこで大切なことは、なによりも自社の「技術のミーム」のシェアであることが指摘できるでしょう。このシェアを重視する経営は、「日本的な経営」の特徴ともいえるものです。しかし、昨今の株主重視、利益重視を声高に叫ぶような経営論では、日本企業をその典型例として批判的に挙げることが多いのですが、

実はシェア極大の行動は、個人を初めとした主体の基本的な衝動であるといってもよい。(※村上,1994,p153)

と村上がいうように、経営の目的のひとつがマーケット・シェア極大であることは、ミーム論から市場を傍観すれば、むしろ自然な姿でしかありません。つまり、ミーム論からみると、

 〈経営は自社の技術のミームのシェア極大化活動〉

と考えるほうが自然だということです。

主流のミームが文化を形成する

さて、ミームが拡散されることの担い手は、人間の脳、それも脳の集合です。それをプール(培地)といいます。(※『脳の集合を「プール」-という表現がわかにくければ「培地」-にして、ミームは伝わり、増える。(佐倉,2001,p30-31 )

そもそもミームは「文化的情報伝達の単位」ですから、ミーム自体は人が単独で持ち続けられるようなものではありません。これを、本書では、

 〈ミームは組織に存在する〉

と表現することにします。ここでいう「組織」とは、ミームがプールとしている脳の束としての人の集合体のことです。ですから、人と人とが相互依存的に存在していれば組織と呼ぶことにします。それはサイバースペースでも、リアルな社会でもかまいません。

たとえば、政府とか、産業とか、企業とか、政党とか、市民社会とか、インターネット上に存在する形のないコミュニティとか、NPOとかいうようなものも「組織」です。先ほどの売り手や買い手というのも「組織」のひとつと考えてよいでしょう。そして、それらの「組織」にも、遺伝子のように、相互に適応と淘汰を繰り返しながら主流となっているミームが存在している、と考えるのです。(※ここで、「遺伝子のように、相互に適応と淘汰を繰り返しながら主流となっているミーム」と呼んでいるのは、ミームも遺伝子同様、自己複製子であるということです。ミームは遺伝子のためにとか、ヴィークル(乗り物)である私たちのために働いているのではありません。ミームはミーム自身が複製され、自らのシェアが極大化され主流となることを目的として存在しているだけなのです。)

ここで「主流」と呼ぶものはそのシェアが大きいというような意味です。つまり、「組織」というミーム・プールでは、適応と淘汰が繰り返され、その淘汰の中で頻度依存的に大きな勢力をもつようなったミームが、その組織での主流のミームとなっているということです。たとえば、内閣の支持率や政党の支持率もミームの適応と淘汰の結果でしょうし、企業の場合であれば、その主流のミームを「社風」とか「企業文化」と呼ぶことができるでしょう。そして、市場における「ヒット」や「ブーム」と呼ばれるものも「主流のミーム」のひとつなのだということです。

つまり、本書では、それらの組織内で主流となっているミームを「文化」とか「世論」とか「流行」とか、もっと狭い意味では「組織文化」とか「社風」といわれているものと同義に扱うこととします。これを中小建設業のIT化の立場で見れば、個々の中小建設業者も、それらの組織である事業者団体にも、より大きなくくりでは中小建設業という業界もミーム・プールであり、そこには文化と呼ばれるような主流のミームが存在しているということです。

ですから、「中小建設業にIT化はいらない」というのもミームです。このミームは多くの方々に模倣され実行され、そして頻度依存的に主流の「文化」を形成しています。それに比べたら「IT化は必要だ」という私の主張は、かなりか弱いミームで、とても主流と呼べるようなものではありません。でもこの「IT化は必要だ」という自己複製子は、己がミーム淘汰を勝ち抜いて主流の地位を獲得することを諦めているのではないのです。このミームはまだ生まれて間もないミームだというだけに過ぎません。

では、なぜミームが主流であったり、そうでなかったりすることが起きるのでしょうか。これは自己複製子だからといってしまえば簡単なことなのです。ミームも進化のアルゴリズムの文脈に存在しています。でも進化のアルゴリズムにまかせっきりの文化というのもなにか寂しいものではありませんか。