情報としてのミーム

私の家には、私と家人のために、ISDN回線とADSL回線、 2台の電はなし機とファックス、 3台のテレビセット、 2基のファイファイ・システム、 2基のDVDシステムとインターネットに接続された 3台のコンピュータがあります。そのほか何百冊という本、何十枚かのCDとDVDとビデオもあります。では、どのようにしてこれらは存在するようになったのでしょうか、そしてそれはなぜなのでしょうか。


この問いは、ブラックモアの『ミーム・マシーンとしての私』第16章の書き出しの模倣です(でも、このフレーズはまだミームではありません)。皆さんも私と同様に、自宅にそして仕事場にあるさまざまな通信機器やデジタルな機器を書きだしてみてください。そして考えてください。

「なぜこんなものが身の回りになくてはいけないのだろうか」。

「いったい何の役に立っているのだろうか」。

(そうすればこのフレーズもミームになれるかもしれません)。

私は、これらの機器は、ミームの複製機会を提供し、その複製能力の確実性を高めるために表出してきたものという理解をしています。そして遺伝情報が「AGTC」で構成されるデジタル情報であるように、そもそもアナログな情報であるミームもまた、デジタルな情報として、自らの複製能をより強めようとしているのだ、と考えるのです。ミームはデジタルになりたがっているのです。

この文脈上にデジタルは存在し、「Being Digital」に向かって進化のアルゴリズムは働いているように思えます。私の講演用のプレゼンピッチには必ず「BD」というファイル名がついているのですが、それは「Being Digital」のことです。つまり「デジタルな生命体」、もしくは、ニコラス・ネグロポンテ風にいえば「すべてがデジタルになる」というような意味です。

(ニコラス・ネグロポンテ:MITのメディアラボ所長。著書である『ビーイング・デジタル - ビットの時代 新装版』(西和彦監訳・解説、福岡洋一訳:アスキー:2001)は、1995年に刊行された頃、デジタル小僧必読の書でした)。

佐倉統は、ここ数千年の人間の歴史を振り返ると、脳の外部に様々な外部記憶装置が出現してきていることを指摘しています。それは文字の発明であり、製本の技術であり、図書館の出現でした。そして今、インターネットが出現してきたのです。つまりミームは、文字→書物→図書館と、次々に新しい外部媒体をつくりだしてきました。これは、遺伝子が核→細胞→多細胞生物と次々と外部媒体――ドーキンスの用語では「乗り物」――をつくりだしてきたことに相当する、としています。(佐倉統:2001)

つまり、コンピュータとそのネットワークとは、ミームがつくりだした新たな外部処理装置――電子媒体――なのです。この意味で、

 〈インターネットとはミームが獲得した新しいプール(培地)〉

だと佐倉はいいます。(佐倉統:2001:p36)

本書の〈IT化において扱われる「情報」とはミームである〉という立場はここに立脚しています。私たちが考察の対象としているIT化のIT(情報技術、特にインターネット)とは、コンピュータとそのネットワークという、ミームがつくりだした新たな外部処理装置だということです。そしてそのことは、〈IT化において扱われる「情報」とはミームである〉ことを意味しています。つまり、IT化とは「情報」を扱うものであるという意味で、ある状況に情報として存在するミームを取り扱うことだ、という認識を持つことできるはずです。そして、「情報=ミーム」の視点を持ってすれば、IT化とはミームが自己複製をより効率化するためにつくりだした、ひとつの問題解決方法だ、ということもできるはずです。