Lesson17 公共工事ダメダメミーム(3)―安心のシステムの崩壊

安心のシステムの崩壊

さて、「公共工事という産業」を維持してきた「安心のシステム」とでも呼べるものをどのように解釈するにせよ、このシステムは、仕事量という環境パラメータの増減によって、いとも簡単に機能できたりできなくなったりすることは明らかです。つまり、「全員に行渡る仕事がある」という環境では、この行動原理は機能しますが、「全員に行渡る仕事がない」という環境では機能することはできません。なぜなら、この「安心のシステム」の構成員が自ら忠実な構成員足ろうと思えるのは、構成員として満足できる仕事の配分を受けることが可能な状態(もしくはそう思える状態)が継続されている場合にしかありえないからです。


このように「安心のシステム」が機能できない環境(仕事がない)をつくりだすことで、「公共工事という問題」を解決しようとする方法が「似非マーケット・ソリューション」だといってもいいでしょう。この仕事量という環境パラメータは、なによりも強力に機能します。それは、私が「本来の意味」という「談合」ばかりでなく、官製談合のような、裏ヒエラルキー・ソリューションが支配する市場をも簡単に崩壊させるものです。

それは第一に「仕事がない」という環境をつくりだしている、公共工事の財源の枯渇という根源が、すでに「ヒエラルキー・ソリューション」の影響が及ぶところにはないからです。

そして第二には、仕事量を減らそうとする「公共工事ダメダメミーム」の持ち主が、公共工事を「共有地」と考える市民社会や地域社会であるからです。

これらが「今という時代」(インターネット社会)に市場という環境をつくり出しているものなのです。仕事量の縮減は、裏であれ表であれ、公共工事における「ヒエラルキー・ソリューション」が機能できなくなることを意味します。

このような変化を支えるものが、まず、「ヒエラルキー・ソリューション」の衰退とそれに歩調をあわせるように表出する、「マーケット・ソリューション」側への時代の振り子の触れです(グローバルへの方向性)。

そしてインターネット社会の特徴ともいえる、市民社会や地域社会いう公共工事を「共有地」と考えるステークホルダーの台頭は、「今という時代」の振り子がC軸(コミュニティへの方向性)へも振れていることを意味しています。インターネット社会は、これらふたつの方向性の共存を容認してしまえる社会なのです。

つまり、「今という時代」に「公共工事という産業」が直面している様々な問題は、この「マーケット・ソリューション」という、いささかカビ臭いけれども、かえってそれが新鮮味を持っているリバイバル・ソングのような問題解決方法の復活と、「インターネット社会」という新しい時代が浮かび上がらせたコミュニティへの方向性、つまり市民社会という「公共工事産業」に対する「消費のミーム」の持ち主の台頭という、ふたつの現象が絡み合っていることで、強力な力を発揮しているのです。

このことは、中小建設業の今後のあり方について、さらに厄介な問題が存在することを示しています。それは、市民社会という公共工事最大の消費のミームの持ち主が「マーケット・ソリューション」という問題解決方法を選択してしまっている、という問題です。

「インターネット社会」では、コミュニティへの方向性を持つ「第Ⅱ象限」に足場を持つ市民社会であれば、「コミュニティ・ソリューション」を問題解決方法に基盤にすべきなのに、グローバル指向の特徴である「マーケット・ソリューション」を支持する方が多いのです。これは市民社会が、「公共工事という産業」の「安心の担保」の崩壊を優先している結果だ、と考えることができるでしょう。

市民社会は、「公共工事という産業」を、「これはなんかヘンだ、信用ならない」とぼんやりとと感じているようです。このぼんやりとした感覚こそが、「今という時代」に公共工事に対する「消費のミーム」形成の重低音として流れ複製されているでミーム・コアなのです。

ソーシャルキャピタルの欠如

この感覚が「消費のミーム」なのです。このミームは、公共工事に対するさまざまな批判的意見の複合体なのですが、「公共工事という産業」を否定する方向でベクトルを重ねあわせ、より複製しやすい、わかりやすい、つまり強力な伝播力を持ったミームとなってしまっています。このミームを、私は「公共工事ダメダメミーム」と呼んでいるのです。

市民社会と「公共工事という産業」の間には深い溝があるようです。この溝が深まれば深まるほどに、「公共工事ダメダメミーム」という「消費のミーム」は、公共工事そのものばかりか、「公共工事という産業」の構成員である中小建設業を否定し始めます。

そしてこの「消費のミーム」は、「マーケット・ソリューション」を「よし」とするミームを内在することによって、問題解決方法選択の振り子を「ヒエラルキー・ソリューション」の対極へと振れさせる原動力になってしまっています。結局、この「振れ」をつくり出しているのは、市民社会と「公共事業という産業」との関係性の希薄さ、つまり、「ソーシャル・キャピタル」の欠如のためだ、と私は考えるのです。

「公共工事という産業」に限らず、日本が産業化の中で失ってしまった「ソーシャル・キャピタル」の蓄積は、市民社会をして、あらゆる問題解決方法を「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」という両極でしか考えられない状況をつくり出しているようです。

これはわが国が明治以降の産業化の中で、市民社会という概念そのものを無視してきた結果なのでしょうが、「今という時代」に(インターネット社会の必然として)突然台頭することとなった市民社会が、「ヒエラルキー・ソリューション」の腐敗とその限界を見たとき、「マーケット・ソリューション」を選択してしまうのもしかたがないことかもしれません。

彼らもまた、「今という時代」に、自らの存在位置を確認できていないのです。しかしこのことが、発注者をして「似非マーケット・ソリューション」に走らせている原因であることも間違いのないところなのです。

開発主義の終焉

「公共工事という産業」を棲家にする「地場型公共工事複合体」の存続には、なによりも「仕事がある」環境が必要なのです。かつては自らが増殖するにも十分な仕事量の確保さえ、この集団自らが可能とした時代があったかもしれませんが、「今という時代」の仕事量という環境パラメータの方向性は、「縮減」でしかありませんし、仕事量という環境パラメータを「公共工事という産業」自らが操作することは、もはやほとんど不可能なことでしかありません。

それは開発主義的政策が、数々の既得権益産業を道連れに本格的な終焉を迎えようとしていることを意味しています。これに対して、仕事量の縮減という環境でさえ、強力な「安心の担保」を持った少数の構成員だけが、より強力な内集団ひいき原理を持って旧来のシステムを維持しようとするだけだ、という反論があるかもしれませんが、しかし、そのような組織の存在さえ困難になることはすでに自明の理でしかないでしょう 。

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