自然の概念
さらに詳しくいえば、それは人間の動物的な、無意識的な自然を孕む自然である――ことで、贈与共同体が純生産を生むための行為対象としての純粋贈与から、人間が消えることはない。(そしてそこには自己さえも含むことになる)。
つまり、会社であれば、地域社会や、社員、といった人間(社会)もまた、世話をする対象としての純粋贈与である、と(私は)考えている。
純生産=信頼
贈与共同体が純粋贈与へ働きかけることによって生まれる純生産は第一義的に「信頼」である。「信頼」はあらゆる交換のメタ情報である。つまり、他のあらゆる純生産(生産物)が、経済的交換との接続で商品にトポロジックなジャンプを行うとき、そこには足場が必要なのであるが、その足場こそ「信頼」なのである。
仮に、贈与共同体(つまり会社という組織)が、交換の原理と直接的な交わりだけで商品を生み出そうとするなら、そこには目的はいらないだろう。
必要なのは金銭的(数値化できる)目標だけであり、そのことで、〈目的/目標〉の差異の理解がない――ことで、今という時代に、その組織はゴーイングコンサーンとしての機能(信頼)を持ち得ない。
その事例は挙げればきりがないが、一番顕著なのが「ミート・ホープ」だろうか。
会見で、田中社長は目的についてコスト削減を挙げ、「豚のくず肉を10-20%混ぜることで、通常より一、二割安くなった」と説明した。(熊本日日新聞:2007年6月22日:26面より)
正解の思い込み
しかし我々の周りには、〈目的/目標〉の差異の理解がない(目標を目的と取り違えた)マネジメント手法が溢れている。それは欧米流だとか、どこかの著名なコンサルタントが言ったとか、まあ、そんなものである。
我々には、「こうすれば儲かる」というような、単純で、分かりやすいモノを、象徴的に受け入れてしまう性質が生来あることはたしかだ。
しかしそれだけに留まるのであれば、それは複雑性を縮減しているには違いないが、いってみれば思考停止でしかない。考えないことで、大きな流れに飲み込まれてしまっている、に過ぎない。
そこでの独自性は(あったとしても)独りよがりなものでしかない(閉じている)ことで、今という時代には、メタ情報としての「信頼」を持ち得ない――ことで組織はゴーイングコンサーンとしての機能(信頼)を持ち得ない。