K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。 (コーヒーと一冊)
江弘毅著 ミシマ社 1080円


K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。

午前7時20分起床。浅草はくもり。土曜日の夜、ボロボロになって帰ったあたしは郵便受けを見た。そこにはミシマ社から本が送られてきていた。それを小脇に抱え、たぶん江弘毅の新作だな、と思う。そういう気がしたのだ。

パチンコ屋で台に向かったり、吉野家のカウンターで牛丼をかき込んだりしている「みんな」は、まぎれもなく「みんな」だが、「一人ぽっちのみんな」であり「バラバラのみんな」だ。そういうところからは「わたし」は立ち上がらない。だからこそその「みんな」は「自分探し」とか「自己決定」が必要なわけだ。(「すこし長めのあとがき」より)

江弘毅はやっぱり天才である。その夜9時を過ぎてから読み始めた本書のセンテンスは短い。けれどあたしとなぜか波長の合う作品が、まえがきとあとがきも含めて14編ほど収められている。読めば読むほどに波長が合う。そのことでこの夜は眠れなくなってしまうな、と覚悟を決めだ(実際はちゃんと寝たけれど)。

まるでちょっといびつな曲を聴くように、あたしは文章一つひとつを食べるように読む。そう、この本はまるでグレーテストヒッツ and etc.江弘毅のベスト アルバムなのだ。それもCDではなく、無論空からふってくるようなオンラインであるはわけもない。

33と1/3回転のLP盤、コーヒーを飲むには丁度よいLP盤なのだ。質感と時間、考え抜かれた結果だな、と思った(盛岡の六分儀のように)。

それは『「仕事は効率よく、コストは最小に」とグルメライターのクダめしとの関係性について。』から小気味よく始まり、「すこし長めのあとがき」まで一直線に書かれている。

この一直線というのがひたすらに凄いのだ。例えば「消費者」について書いていても、『希望の国の幸福な若者たちに』について書いていても、ヤンキーや、それこそユーミンについて書いていても、なんの違和感もなく、態度は一直線なのだ。つまり揺るぎない。

だからこそ、顔を知っている先輩から「この頃の若いもんは……」と言われて、「はあ、すいません」と返す姿勢がヤンキーにはある。だんじり祭礼の世界に長くいるK氏は、そういう態度は嫌いではない。というか、そうでないと祭はやっていけない。
ヤンキーは「知り合いばかりでみんないいヤッおもろい人」という倫理観が根底にある。この倫理観はFacebookの「友達」のコメントや写真に「いいね⊥を連打するのとは少し違う。(『「この頃の若いもんは」という物言い。』より)

ところが、ユーミンにかかると「恋人がサンタク.ロース」である。それ以前に、クルマで迎えに行かないと、家から出てこない。もちろん、国産車はNG。おそらくアルファロメオ・スパイダーぐらいが想定されている。でないと、埠頭を渡る風の中で横顔がどうたら言う状況の説明がつかない。(「『恋人がサンタクロース』のユーミン考。」より)

しかし、こんなことばかり考えていると生きにくいのも確かだろう。だけど彼はあきらめないのだ。『だからあと数年もすれば、K氏はますます生きにくくなるのだろうか、と考えるに、なかなかに複雑であるな。けれどもK氏はあきらめていない。』(「すこし長めのあとがき」より)なのだろう。

そしてこの文章が、最初の引用文に続くのだ。さらにお気づきかと思うが、今回の作品は「K氏」と表記されている。「K氏」とはもちろん江弘毅のことだが、この本は彼自身が彼のことを書いた「自己描写」だ。しかし『自我がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語ってはいけない理由は無いではないか』(『彼自身によるロラン・バルト』ロラン・バルト著より)なのである。

そして「自己描写」はなんてことは無く、書く「快楽」の半分を読者の為に、残りの半分の「快楽」は自分の為に書かれている。しかし例によってその根拠は何処を探しても見つからないのだが、ただ読んで、その言葉の出所をあれこれ考えられるあたしは嬉しいし、(たぶん)江弘毅もうれしい(のだろう)。江弘毅は読者の為に良い本を書いたな、と思う。それはさすがミシマ社ということなのかな、つまりミシマ社も天才である。