思考の眼鏡

「私たちが、ぼんやりでも日本経済がわかるような気がするのは、私たちが何がしかの経済学を身につけていて、それを眼鏡として世間を見ているからである。」(※笠信太郎の言葉、佐和隆光,『経済学の名言100』,ダイヤモンド社1999,p168)というように、私たちが中小建設業のIT化を考察するにしても、何がしかの眼鏡は必要です。


といっても、中小建設業のIT化などという目に見えないものを見ようとしているのですから、それが顔にかけるような眼鏡ではなくて、思考の眼鏡とでもいうべきものであることは簡単に理解できるでしょう。富士山の頂上にのぼって双眼鏡で下界をながめて見たところで中小建設業もIT化も見えるわけはありません。

本書でこの思考の眼鏡の役割をするものが「ミーム(meme):文化子、文化複製子」という概念なのです。そして本書が〈IT化が扱う情報とは「ミーム」のことである〉というように、「情報とはミーム」であるという眼鏡を持てれば、我々は中小建設業がおこなうIT化の目的が「コミュニティ・ソリューション」の理解にあることがわかるはずです。

つまり、このミームという言葉は、すでに「ソーシャル・キャピタル」にふれた箇所で金子郁容の言葉としてでてきています。「ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である。」というのがそれですが、たぶん、多くの読者の方々にはこの金子の言葉の意味は理解できなかったかと思います。しかし、ここでミームについての理解をおこなうことで、これも理解できることになるでしょう。

ミームという眼鏡

さて、「ミーム:meme」という概念は、遺伝学者リチャード・ドーキンスの一九七六年の著作『利己的な遺伝子』(日高敏隆ほか訳,紀伊国屋書店,1991)を発端にしています。ですから、生まれて間もない、まだまだ未熟な学問であることは最初に認めてしまいましょう。スーザン・ブラックモアは次のようにいいます。

私たちが二十世紀のまさに終わらんとするときに打ち立てたミーム学は、もう一世紀間は、あまり有効でないように見えるのは疑いないだろう。(スーザン・ブラックモア,『ミーム・マシーンとしての私〈上〉』,垂水雄二訳,草思社,2000,p129)

そしてもう一点、最初に明記しておくべきことがあります。それは、

 〈ミームはポチです〉

ということです。

これは佐倉統の言葉です。(※佐倉統,『遺伝子vsミーム―教育・環境・民族対立 (広済堂ライブラリー)』,廣済堂出版,2000,p214-215)なんだ、ミームは犬なのかと思われると困るのでが、ここでいう「ポチ」とは、ここ掘れワンワンと問題点を教えてくれるようなものという意味と理解してください。佐倉は次のようにいいます。

ぼくはミームという概念の有効性は、定量的な記述や予測などではなく、比喩やアナロジーに基づく問題発見能力にあると思う。問題「解決」能力ではない。問題のありかを発見し、すばやく警報を発する。ここ掘れワンワンと教える。ミームとは。ポチのようなものです。実際に掘って問題を解決するのは、別の人であり、他の理論であり、違う学問である。(佐倉統,『遺伝子vsミーム』,廣済堂出版,2000,p214-215)

つまり、ミームは問題発見ツールぐらいには使えますが、問題解決方法ではありません。これを取り違えてミームで問題解決をしようとすると、本書は「カルト本」化してしまいます。このことを最初に理解しておくことも大切なことです。