午前6時40分起床。浅草はくもり。

アクセスログより 

アクセスログを見ていると、一昨日、昨日と、「パティスリーケンジ」の検索アクセス数が急増していた。以下は二日分(10日、11日)をまとめたみたものだ。

ももち ど ぶろぐ|パティスリーケンジの宇部レトロ黒ダイヤはSWEETS甲子園に出場するらしい。

(すべてのキーワード)

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パティスリーケンジ

(6) - Yahoo 検索結果:6

宇部レトロ 黒ダイヤ

(5) - Yahoo 検索結果:4 - Google 検索結果:1

パティスリー ケンジ

(2) - Yahoo 検索結果:2

パティスリー・ケンジ

(2) - Google 検索結果:2

黒ダイヤ 宇部

(2) - Yahoo 検索結果:2

サイトのページが検索された回数をキーワード単位で集計表示しています。キーワードは「先頭単語」別にまとめて表示しています。検索エンジンのアイコンをクリックすると検索結果ページが表示されます。(track wordより)


パティスリーケンジ

パティスリーケンジは、宇部市にある洋菓子店であり、以前林さんから「宇部レトロ黒ダイヤ」というチョコレート焼き菓子をいただいた際に、そのネーミングにパトリ性を強く感じ記事を書いだ。

検索結果をみていただければわかるが、Yahoo 検索結果 でも、Google 検索結果 でも、当該記事は上位に表示される。それは偶有的であり、SEO的には予想通り成功しているともいえるが、検索ヒットされたことは偶然でしかない。

しかし今回私が書こうとしていることはそんなことではなく、宇部市の方々が、この宇部の洋菓子店について(Web上では)殆ど言及していない、という事実だ。それは例えば、「宇部レトロ黒ダイヤ」でGoogleで検索してみればすぐに確認できるだろう。

差異

それをもって、情報発信が足りない、と以前の私なら単刀直入にいってしまうのだろうが、最近は、これは情報発信が足りないのではなく、それ以前に「差異」が生まれていないのではないだろうか、と考えている。

それは、「宇部レトロ黒ダイヤ」が宇部の方々の知られていない、ということではなく、むしろその逆に、当たり前の存在でしかなくなっている、ということだ。つまり僕の日常は君の非日常が成立していないのである。

パトリ

これはパトリの成立要件のようなもので、これを露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」であって、それは根源的未規定性を露呈させる。これを成立させるのは「差異」を「差異」と感じる心(感受性)でしかないだろう。

コミュニケーション

二クラス・ルーマンによるコミュニケーションの定義は、〈情報/伝達〉の差異の理解でしかなく、コミュニケーションの始まりは「差異」を「差異」として感じることができるということだ。しかし「差異」を「差異」として感じることができないのであれば、コミュニケーションはそもそもはじまりようもないのである。

それは「種の論理」的には、「種に溶けた個」であって、ある「種」(パトリ、地域)において、「個」が「種」に溶けている(矛盾対立の無い)状態では、ルーマンのいうコミュニケーションは発生しないし、そのような「種」に溶けた「個」は、当然に「完備概念」としてのライプニッツ-田邉元的な「個」でもない。

異邦人

私はいつも、浅草的を通してパトリを書こうとしいるが、それは他所(浅草以外)を少なからず知っているからである。つまり私は浅草に住む異邦人であることを使って、浅草の「なぜここが他ならにここであるのか」をみようとしている。と同時に、私は浅草の人であることで、他所に行けば紛れもない異邦人なのである。

しかし異邦人であるが故に、他所に対しても「なぜここが他ならにここであるのか」を感じることができるのだと考えている。そしてそれをこのブログに書き留めることで、私の感じた「差異」を撒き散らし、そのことで浅草的を浮かび上がらせようとしている。

その過程で、浅草の「なぜここが他ならにここであるのか」がみえてくる。それまた「なぜ私はアナタではない私なのか」を感じることを可能とし、私という「個」を自ら知ろうとすることなのだと考えている。

異邦人として日常を書くこと、そしてバルネラブルにさらすことは、「差異」の表徴でしかない。そしてそのことでしか、ライプニッツ-田邉元的なコミュニケーションは生まれ得ないのだと(私は)思う。