午前7時起床。浅草はくもり。

橋本治の『権力の日本人 双調平家物語ノートⅠ』を読み始めている。

権力の日本人 双調平家物語ノートⅠ権力の日本人 双調平家物語ノートⅠ

橋本治(著)
2006年3月28日
講談社







「明治という国家(下)」にも書いたように、あたしはこの国の歴史に疎い。なぜ疎いのかと云えば、そんなもの教わってこなかったからである。

そして、あたしが興味を持って取り組んだ経済学にしろ社会学にしろ、せいぜい近代明治迄しか遡らない。それでも一著前に本が書けたり議論できたりするわけだ――『桃論』もそんなものだ――。

古代ギリシャを参照している西欧思想を参照しながら、近代日本(明治以降)を語ったりする。その「複雑性の縮減」の理由はわからないわけでもないが――確かに日本の西欧化(西欧的近代化)は、明治に始まっている――、「論壇」は、明治の時代に日本は突然生まれたように扱う。

しかし、そこになにか違和感を感じるようになったのは、「考える技術」の基底に「日本語の構造」を置くようになったからだろう。

日本語は、日本の近代化と伴に合理化は施されてはいる。しかし、私たちの言葉が、例えば明治や先の敗戦で、時代的に断絶しているわけではない。遡れば面々とミーム的に進化している。

と同様に、あたしらのミーム(スティグレールの云う意味での象徴―つまり一階部分)も、明治に突然生まれたものではないだろうと考えるわけだ。つまり、もう少し江戸以前を勉強したいと思った。

出来れば、現代から出来る限り過去に遡り――それがどこの時代でもよいから――、現代に向けて一本の線(主題)で書かれているものを読んでみたいと思っていた――それは網野善彦氏の仕事には感じてきたものだが――。

橋本治のこの本は、そんなあたしの欲望を満たしてくれそうだ。この本の一本の線とは「権力」である。勿論、橋本治は歴史学者ではなく、小説家である。そして、書かれているのは「平安時代」である。彼は云う、

「日本の都市文化のルーツは江戸にある」と思っていたが、実はそれより古くて、すべてのルーツは平安時代にあるのだなということもよく分かったので、「やっぱり『平家物語』をやりたい」と思う。

一頁二段組、三五二頁に(これでは足りずに続編があるそうだ)、圧倒的な知識と、知識をつなげる力でそれをまとめあげようとしている。つまり平家物語の時代を語りながら、それをルーツとした視点は現代にまで届く。

圧倒的な量と、氏名の羅列は、読む方にも相当のエネルギーを必要とする。あたしはまず――私的な興味から――、二六六頁の「誰がえらいのかよく分からない国」と云う章を読み(十分に手ごたえを感じ)、そして今、最初から読み始めている。なのでまだ、感想を書けるわけもない。